最後に、第5節の「暗闇は光を理解しなかった」という結びの解釈に沈潜します。この一節は、長らく「世の罪や無知が、救いの光を退けた」という道徳的な拒絶として読まれてきました。
しかし、「言は神であった」「万物は言によって成った」という原初の絶対的一元論において、神の外部に独立した暗闇など存在し得ません。原初において存在し得た暗闇とは、ヤーコプ・ベーメが神の根底に見た「無底(ウングルント)」、あるいは否定神学が説く「神聖なる暗闇」――すなわち、言葉や形式に先立つ神自身の「不可知の深淵」です。
新約聖書のギリシャ語において「理解しなかった」と訳される「カタランバノー」は、知的な理解にとどまらず、手で力づくで捕らえること、枠内に包摂し尽くすことを意味します。この語義に立ち返るとき、一節の真層が立ち現れます。
神の沈黙の深淵ですら、自らの内からあふれ出たゾーエーの無際限な光を、閉じた秩序の中に「捕らえきる(カタランバノー)ことができなかった」。光は神自身の自己完結的な静止を突き破り、他者へと向かって永遠に越境し続けている――。暗闇とは敵対する悪ではなく、光を生み出しながらもその光を己の内に留め置けずにいる神の深淵であり、創造とはこの「捕らえきれなさ(生の溢れ出し)」そのものの現われなのです。
深淵の逆説: 暗闇とは敵対する悪ではなく、神自身の内なる無底であり、光はその境界を永遠に超え出続ける。