このファイルについて

ローマ教皇レオ14世から発表された、回勅『マニフィカ・フマニタス』をGoogle AI Studioで日本語に翻訳したものです。

Encyclical Letter of His Holiness Leo XIV Magnifica Humanitas (15 May 2026) https://www.vatican.va/content/leo-xiv/en/encyclicals/documents/20260515-magnifica-humanitas.html

回勅 『マニフィカ・フマニタス』

教皇レオ14世
人工知能の時代における人間の保護について


目次

序文

現代の「新しい事柄(レス・ノヴァエ)」
聖書の二つのイメージ
共通善のための建設
人間であり続けること

第一章: 福音に忠実な力強い歩み

人類の歴史を旅する教会
    人文科学との対話における神の言葉の知恵
    共有された識別としての社会教説
レオ13世から今日に至る社会教説の発展
    教会の社会教説の初期段階
    第二バチカン公会議の時代
    最近の教導権
    信仰の光に照らして歴史を読み解く

第二章: 教会の社会教説の基礎と原則

社会教説の基礎
    人間:三位一体の神の似姿
    すべての人間の平等の尊厳
    人権の至高の価値
社会教説の原則
    共通善の原則
    財の普遍的目的の原則
    補完性の原則
    連帯の原則
    社会正義の原則
全人的開発
教会に対する究明

第三章: テクノロジーと支配。AIの約束に照らした人間の偉大さ

テクノクラシーのパラダイムとデジタルの力
人工知能
    警戒を要する有益な道具
    責任、透明性、そしてAIのガバナンス
失われてはならないもの
    底流にある物語:トランスヒューマニズムとポストヒューマニズム
    限界、心、そして人間の偉大さ
真の「人間を超えるもの」:恩寵とキリスト教的ヒューマニズム
二つの都と二つの愛

第四章: 変革の時代における人間の保護。真理、労働、自由

共通善としての真理
    真理と民主主義
    コミュニケーションと集合的想像力
    コミュニケーションのエコロジーに向けて
    デジタル時代のための教育的協定
    学校の中心的役割
デジタル移行期における労働の尊厳
    労働の価値
    失業の問題
    尊厳を重んじる経済
    家族と若者:希望のための社会条件
依存と商業化から自由を守る
    依存と社会的統制
    新たな形態の奴隷制の鎖を断ち切る
共有された責任

第五章: 力の文化と愛の文明

デジタル時代における愛の文明
力の文化
    戦争の常態化
    際限のない武力
    兵器と人工知能
    多国間主義の危機
    誤った政治的現実主義
愛の文明の建設
    わたしたちは皆、自分の役割を果たすことができます
    言葉の武装解除の必要性
    正義による平和の構築
    犠牲者の視点を取り入れること
    健全な現実主義を育むこと
    対話の復活
    外交と多国間主義の必要性
    祈りと希望

結び

御言葉は肉となった
キリストにおける一つの体
現代の建設現場
希望の歌:マリアの賛歌

序文

  1. 神によってその大いなる威厳のうちに創造された人類は今日、重大な岐路に立たされています。すなわち、新たなバベルの塔を建設するのか、それとも神と人がともに住まう都を築くのか、という選択です。各世代は、それぞれの時代を形作り、すべての人の尊厳が守られ、正義が促進され、兄弟愛が可能となる場へと歴史を導く任務を受け継いでいます。しかしながら、どの時代もまた、非人間的でより不公正な世界を作り出してしまう危険をはらんでいます。人類がその真のアイデンティティを損なう危険にさらされるとき、わたしたちキリスト者は常に、受肉された神へと目を向けます。「人間の神秘は、受肉したみことばの神秘の内にのみ真の光を帯びる」1ということを知っているからです。イエス・キリストにおいて、この大いなる人間性は、道、真理、そして命となり、わたしたち一人ひとりが満ちあふれる豊かさに向かって成長するための道を開いてくださいます。

  2. 生きた石であるキリストの土台の上に立ち、わたしたちは聖霊の力強く神秘的な働きを経験します。そして、善のために聖霊と協力しようとする真摯な人間の努力はすべて、わたしたちが希望を置く天の御父によって祝福されると信じています。このため、わたしたちは、より公正な世界を築くためのあらゆる取り組みに熱心に貢献し、すべての人の全人的開発を促進するために協力するよう、他の人々に呼びかけることができるのです。わたしたちは、人類の出来事、問い、そして切なる願いを共有する、現代のすべての男女と対話を行うことを望んでいます。2 彼らとともに、わたしたちは共通善のための、そしてすべての人にとって尊厳ある生活を推進するための新たな道を見いだそうと探求します。まことに、対話に対して開かれていることは教会の召命の不可欠な一部です。なぜなら、教会はキリストにあって「神との交わりと全人類の一致の(…)秘跡」3として立てられており、歴史こそが、福音が人間の経験に問いかけ、それを導く場であると認識しているからです。

  3. この精神のもと、教皇レオ13世は1891年に回勅『レールム・ノヴァルム』を発表されました。本年、わたしたちは深い感謝をもってその135周年を祝います。その文書によって、わたしの愛する先任者は、社会、経済、政治に関する考察に推進力を与えました。それは今日「教会の社会教説」として知られています。教会は世俗の事柄に労力を費やすべきではなく、むしろ永遠の命のメッセージを伝えることに集中すべきであると一部の人々が反対したとき、レオ13世は現実主義と知恵をもって応え、福音の宣教は人々の具体的な生活を見過ごすことはできないと述べられました。4 それから数十年の時が流れ、教導権、牧者たち、神学者たち、そして信徒たちは、福音の光に照らして社会問題について考察し続けてきました。今日、教会の社会教説は知恵の遺産となっており、その中にわたしたちは、考察のための原則、識別と判断のための基準、そして行動のための具体的な指針を見いだします。聖書と聖伝に基づき、諸科学と関わりながら、それはわたしたちが現代の課題を明確に読み解き、喜びをもって世界に奉仕しながら、明白なキリスト教的証しを生きるための適切な方法を見極める助けとなります。それは単なる無機質な概念の寄せ集めではなく、豊かで公正な生活へと向かう人類の召命を守り、解釈する、生きた真理の集成(コルプス)なのです。それゆえ、世界のはじめからこの世におられる知恵の霊(箴言8章22-31節参照)の助けを願い求めながら、わたし自身の声をこの生きた伝統に加えたいと望んでいます。

現代の「新しい事柄(レス・ノヴァエ)」

  1. レオ13世はその時代における「新しい事柄」(レールム・ノヴァルム)について語られましたが、今日、わたしたちはその洞察に満ちた教えを単に繰り返すことに留まるわけにはいきません。むしろ、わたしたちは現代の大きな潮流、とりわけ技術の進歩を解釈するための知恵を神に願い求めなければなりません。近年、デジタル化、人工知能(AI)、そしてロボット工学がどれほど急速かつ根本的にわたしたちの世界を変容させているかが、ますます明らかになっています。テクノロジーは、それ自体として人類に敵対する力と見なされるべきではありません。それどころか、テクノロジーは「人間の自律と自由に結びついた、深く人間的な現実」5として、はじめからわたしたちの歴史の一部を形成してきました。何世紀にもわたり、技術の発展は人類の生活条件を著しく向上させてきました。同時に、各段階における進歩は、善に向けられない場合には害をもたらしうる道具の曖昧さをも明らかにしてきました。しかし今日、わたしたちは新たな状況に直面しています。新興技術の力とその普及は、日常生活の織り目にまで組み込まれ、意思決定のプロセスを形作り、集合的な想像力に深く影響を与えています。「人類がこれほどの力を自らに対して持ったことはかつてありませんでした」6。新しい技術は、想像可能ではあるものの、まだ完全には予測できない方向へと広がる地平を切り開いています。このことは、それが個人の尊厳と共通善の双方にもたらしうる潜在的な影響や長期的な結果を評価することを、より複雑なものとしています。

  2. 今や、明晰な思考と責任をもって現代の課題に向き合うことが、わたしたちに課せられています。正義を擁護し、技術力の歪んだ影響を抑制することのできる、適切な規制の枠組みを確立することが必要です。それにもかかわらず、問題は規制だけにとどまりません。教皇フランシスコが警告されたように、わたしたちは今日、誰がこの力を握り、それをどのように使用しているのかを、現実的に自問しなければなりません。「原子力エネルギー、バイオテクノロジー、情報技術、私たち自身のDNAの知識、そして私たちが獲得してきた他の多くの能力が(…)その知識を持つ人々、とりわけそれを使用する経済的資源を持つ人々に、全人類と世界全体に対する驚異的な支配力を与えてきたことも認識しなければなりません」7。過去においては、イノベーションを導き、方向付けるのは主に国家の役割でした。しかし今日、開発の主要な推進力となっているのは、多くの政府を凌駕する資源と介入能力を備えた、しばしば多国籍にわたる民間の当事者たちです。かくして技術的な力は、前例のない、圧倒的に「私的」な側面を帯びることになり、その結果、この力を識別し、統治し、共通善に向けて方向付けることが、さらに困難なものとなっています。

  3. このため、進行中の変容の霊的および文化的根源を特定するための、共有された識別のプロセスを始めることが必要です。もしわたしたちが目前の偶発的な出来事にのみ焦点を当てるなら、次々と起こる緊急事態にわたしたちの進むべき方向を委ねてしまう危険があります。わたしたちは、急速な移行期、すなわち「時代の転換期」を生きています。そこでは、ある人々は新しい技術の未来をめぐって競い合い、別の人々はその問題に関する考察に身を捧げている一方で、大多数の人々はただ見守り、遠くから観察し、最善の結果を単に望んでいるだけです。まさにこの理由から、重大な問いがわたしたちの良心に突きつけられており、もはや避けて通ることはできません。わたしたちはどこへ向かっているのか。どのような目標に向けて自らを方向付けようと望んでいるのか。一つの民として、そして人類共同体として、わたしたちはどのような方向を選ぶべきなのでしょうか。

聖書の二つのイメージ

  1. これらの問いに答え、AIの時代をどのように責任をもって航海すべきかを識別するために、わたしは聖書から二つの場面を思い起こしたいと思います。バベルの塔の建設(創世記11章1-9節参照)と、エルサレムの城壁の再建(ネヘミヤ記2〜6章参照)です。バベルの物語は『創世記』に登場し、人類の起源において、ノアの息子たちの系図の直後に位置づけられています。シンアルの地の平野に定住した後、人々は「天に届く塔」のある町を建てようと決意しました(創世記11章4節)。全地に散らされることを恐れた彼らは、自分たちのための安定と力を確かなものにし、何よりも自分たちの「名を上げる」ことを求めました。それは目覚ましい偉業でした。一つの言葉、一つの技術、一つの方向性。しかし、その計画は深い危険を隠し持っていました。それは神を顧みることなく構想された計画であり、多様性を排除する画一性に支えられ、交わりよりも均質化を選び取るものでした。町が傲慢と自己充足の主張の上に築かれるとき、コミュニケーションは崩壊し、言葉は乱れ、人々はもはや互いを理解できなくなります。その結果は一致ではなく、離散です。このようにバベルは、いかに壮大であろうとも、自己肯定から生じ、効率のために人間の尊厳を犠牲にし、神の祝福なしに天に届こうと熱望するあらゆる努力の限界を明らかにしています。

  2. 一方、『ネヘミヤ記』は、古代イスラエルの歴史における非常に脆弱な時期から始まります。バビロン捕囚の後、民の一部はエルサレムに帰還しましたが、都は依然として廃墟のままであり、城壁は崩れ落ち、門は焼け落ちていました(ネヘミヤ記1〜2章参照)。ペルシア王アルタクセルクセスに仕えていたユダヤ人ネヘミヤは、先祖の都の悲惨な状況についての知らせを受けました。行動を起こす前に、彼は断食し、祈り、民のために執り成しました。そして彼は王にエルサレムへの帰還の許可を求め、到着すると、破壊された場所を沈黙のうちに視察しました。彼は上から解決策を押し付けることはしませんでした。彼は諸家族を召集し、それぞれに城壁の再建区画を割り当て、彼らの懸念に耳を傾け、その努力を調整し、いかなる反対にも対処しました。この物語は、一人の人間の主導によってではなく、すべての人の共有された責任を通じて、いかにして都が生まれ変わるかを示しています。男性、女性、祭司、職人、家長、若者など、誰もが役割を果たすのです。それは神を中心とした事業であり、石を用いて再建する前に、まず関係性を再建するものです。こうして、古代のエルサレムは共通の言語を再発見します。それは画一性の言語ではなく、交わりの言語、すなわち、すべての人が自らの役割を引き受け、自分たちの力が主から来ていることを認識するときに生じる調和なのです。

  3. これら二つのイメージに照らして、聖霊は今日、テクノロジーおよび進行中のデジタル革命とのわたしたちの関係について、わたしたちに問いかけておられます。科学的発見は、それが実を結ぶようにと人類に委ねられたタラントンです(マタイ25章14-30節参照)。テクノロジーには、癒やし、結びつけ、教育し、わたしたちの共通の家を保護する力があります。しかしそれはまた、分断し、排除し、新たな形態の不公正を生み出すこともあり得ます。抽象的に言えば、テクノロジーそれ自体は人類の問題に対する解決策ではありません。ちょうどそれが本質的に悪ではないのと同じです。しかし現実において、テクノロジーが決して中立であることはありません。なぜなら、それはそれを考案し、資金を提供し、規制し、使用する人々の特徴を帯びるからです。それゆえ、わたしたちの第一の選択は、テクノロジーに対して「イエス」か「ノー」かを問うことではなく、むしろバベルを建設するのか、それともエルサレムを再建するのかという選択なのです。天を支配すると主張する力と、神の御前でともに働き、兄弟として共存する城壁を再建する民との間での選択なのです。

  4. それゆえ、わたしたちは「バベル症候群」を避けなければなりません。すなわち、弱者を犠牲にする利益の偶像化、差異を無効化する画一性、そして一つの言語が(たとえそれがデジタルの言語であっても)人間の神秘を含むすべてのものをデータとパフォーマンスに変換できるという思い上がりです。非人間化の危険、つまり神を排除し、他者を手段におとしめる未来を築く危険は、古くからありながら常に新しい誘惑であり、今日では技術的な装いをまとっています。そうではなく、「ネヘミヤの道」を選び取りましょう。それは、神の都を、帰還する流刑者たちにとって安全な場所とするために、ともに働くことの重要性を強調するものです。今日において再建するとは、たとえそれが時に、話し言葉の多様性が引き起こした混乱を思い起こさせるとしても、まさにその多様な声とビジョンの中から、輝かしい可能性が立ち現れることを認識することです。まことに、これこそがともに築き上げる可能性であり、多様性を資源へと変え、傾聴と対話を、正義と兄弟愛を育むための共通の土台とする可能性なのです。この共有された任務の中で、キリスト者は自らの行動を神に向けるという独自の役割を発見します。それは、神の光のもとで、多元主義が無秩序へと霧散するのではなく、むしろシノダリティの実践を通じて、人類がその確固たる基礎と最終的な目的を再発見する空間となるためです。『ヨハネの黙示録』において、ヨハネは新しいエルサレムが、全人類への賜物として「神のもとを離れ、天から下って来る」(黙示録21章2節)のを見ます。そしてこの恵みのビジョンは、わたしたちキリスト者に対する、今日の「都市」において、平和で、公正で、尊厳ある共同体の生活を育むためにともに働くよう促す招きなのです。

共通善のための建設

  1. 共通善に基づく都を建設することは、何よりもまず、神との確かな関係の上に築くことを意味します。それは、神の愛の真理が、わたしたちを「豊かに」命を受けること(ヨハネ10章10節参照)、そして神との交わりへと招いていることを認識することです。聖アウグスティヌスのように、わたしたちもまた「主よ、あなたはご自身のためにわたしたちを造られました。わたしたちの心は、あなたの内に憩うまで安らうことがありません」8と言うことができます。実に、神はわたしたちの心に、生活のあらゆる次元を包み込む幸福への望みを刻み込まれました。教会は、現代の男女との対話の中で、この切なる願いを守り、その最も深い真理へと導くことの緊急の必要性を認識しています。

  2. 第二に、共通善のために建設するとは、人類の限界や弱さを、正されるべき誤りと見なすことなく受け入れることを意味します。今日、満ちあふれる命に対する人間の望みは、欺瞞に満ちた目標によって誤った方向へ導かれる危険にさらされています。例えば、わたしたちをあらゆる弱さから解放すると約束する技術の展望や、全人口の大きな部分を置き去りにするような幸福のモデルなどです。あまりにも多くの場合、わたしたちは無制限の「アップグレード」や、不平等を悪化させるような進歩の形態、あるいは人々の傷を癒やすことのできない即席の解決策に希望を託してしまいます。その結果、一部の人々が無制限の自己主張という幻想を追求する一方で、多くの人々が基本的な必需品さえ奪われています。教会は、断固として、しかし謙虚な声でわたしたちに思い起こさせます。真の充足は、弱さを排除することによってではなく、調和のとれた成長を通じて達成されるのだということを。それは、自由と責任が相互の配慮および真の連帯と結びついている場所、そして進歩が各人の尊厳とすべての人々の善によって測られる場所に見いだされるのです。

  3. 第三に、誰もが花開くことのできる世界を築くには、共有された責任と勇気が必要です。誰も、世界が直面している課題の重みを一人で背負うことはできません。同時に、誰も自らの役割を果たせないほど弱いわけでもありません。なぜなら、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(コリント二12章9節)からです。すべての人に、城壁のそれぞれの区画が与えられています。科学者と研究者、起業家と労働者、教育者と立法者、市民社会、民衆運動、そして信仰共同体。これこそが補完性の論理であり、安定、繁栄、そして平和を育むための最良の道として、世代、民族、学問分野、および文化間の協力を重んじるものです。わたしたちは緊張や差異にひるむべきではありません。なぜなら、それらは共有された責任に導かれるとき、創造的な力となり得るからです。

  4. 最後に、共通善のための建設には、福音的な言語が必要です。わたしたちは、屈辱的で敵対的な言葉を避け、むしろ光を投じる明晰さと、新たな可能性の扉を開く率直さを選ばなければなりません。わたしたちは、ナイーブな熱狂を容認することも、根拠のない恐れを煽るすることもできません。そうではなく、識別のための基準――人間の尊厳、財の普遍的目的、貧しい人々への優先的選択、わたしたちの共通の家の保護、そして平和――を確立しましょう。そして、これらの基準を、責任ある計画、人間的および社会的影響の評価、最も弱い立場にある人々の包摂、デジタル・リテラシーの促進、ならびに研究と産業を正義と平和へと導くことなどの実践へと翻訳していきましょう。

人間であり続けること

  1. 最近の2025年の通常聖年において、わたしたちは希望の巡礼者として歩み、多くの恵みに祝福されました。これらの賜物によって強められ、わたしたちは前方に待ち受ける困難な任務と厳しい課題に立ち向かうべく、自信をもって前進することができます。人間の尊厳が新たな形態の非人間化によって脅かされている人工知能の時代において、深く人間であり続けることこそが、わたしたちの喫緊の義務なのです。わたしたちは、わたしたちに与えられ、キリストにおいてその充満のうちに啓示された人類の偉大さを、愛情をもって守らなければなりません。その輝きは、いかなる機械も決して取って代わることのできないものです。真の進歩は常に、他者に開かれた心、耳を傾けようとする知性、そして分断するものではなく結びつけるものを求める意志から生じます。

  2. わたしは、すべてのカトリック信徒、すべてのキリスト者、そして善意のすべての男女に向けて、この心からの呼びかけを行います。わたしたちの時代の「建設現場」において、手を汚すことを恐れないでいましょう。ネヘミヤのように祈り、賢明に計画し、忍耐強く働きましょう。神をわたしたちの行動の第一に置き、人間をわたしたちの選択の中心に据えながら。そうして、「退けられた石」――貧しい人々、病にある人々、移住者、そしてわたしたちの中で最も小さくされた人々――が隅の親石となり、この地上に、強固で歓迎に満ちた共通の家が現れることでしょう。そこでは、慈しみとまことはついに巡り合い、正義と平和は口づけするのです(詩編85編10節参照)。これこそがわたしたちが神にこいねがう祝福です。そして、わたしたちの前に立つ任務は、バベルの設計者としてではなく、交わりを築く者となることなのです。わたしたちは、破滅を運命づけられた塔の主としてではなく、来るべき御国のしもべとならなければなりません。牧者として、そして父としての心をもって、わたしは皆さんに、また新たなバベルの塔の建設を放棄し、共通善の構築のために力を合わせるようお願いします。そうして、人類がその美しさを決して失うことなく、世界がふたたび、人間の心こそが神の住まうことを望まれる場所であると認識するようになりますように。

第一章: 福音に忠実な力強い歩み

  1. この第一章において、わたしは、教会の社会教説がその力強い性格を示すために、近年の教皇の教導権および第二バチカン公会議においてどのように形作られてきたかを総合的に提示したいと思います。まことに、それぞれの時代において、「新しい事柄(レス・ノヴァエ)」は、この教えが啓示された真理の光に照らして歴史的な問いに取り組むことを要求しています。この点に関して、人工知能もまた、単に研究されるべきもう一つのテーマや、管理されるべき危機としてではなく、むしろ社会教説の枠組みに内側から問いかけ、福音に忠実なさらなる発展を求める一つの展開として見なされるべきです。

  2. しかしながら、この概観は、歴代教皇やその最も重要な文書の貢献について考察する前に、教会が歴史の中に存在し、世界と関わる方法に関するいくつかの基本原則をまず明確にしておかなければ、十分に理解されるものとはならないでしょう。そうしなければ、社会教説は「世俗的」な事柄への不当な干渉、あるいは上から押し付けられた外部の倫理規定として受け取られる危険にさらされることになります。現実において、社会教説は、現世の事柄の自律性、および教会共同体と政治共同体の区別を認識しつつ、人類とともに歩む教会から生じています。まことに、教会が共通善に奉仕するよう努めるのは、まさにこの理由からなのです。

人類の歴史を旅する教会

  1. 教会は、全人類の家族の一致のしるしとして世界に存在しています。教会は、今日の問いや課題を、傾聴、対話、そして奉仕という固有の召命を果たし、現代の男女の生活に関するすべてのことに応えるための、現在の舞台として認識しています。人々の生活へのこうした関与は、教会の使命が歴史的な広がりを持ち、社会関係が築かれるあり方に対する責任を伴うものであることを、教会がこれまで以上に明確に理解する助けとなります。このため、教会は自らを社会を形成する力とは無縁の存在であると見なすことはできません。それどころか、教会は社会が成長し組織化されるプロセスに積極的に参加し、より公正で兄弟愛に満ちた社会の創造に向けて独自の貢献を提供します。教皇フランシスコは、教会の使命のこの歴史的次元を次のように強調されました。「宗教を個人の内面的な生活の奥底に追いやることを要求し、社会や国家の生活に影響を与えず、市民制度の健全性に関心を払わず、社会に影響を与える出来事について意見を述べる権利を持たないようにすることは、誰にも要求できません」9。

  2. 歴史の具体的な事象において人類に寄り添うという教会の召命と義務は、現世の現実がそれ固有の性質と秩序を備えていることを認識するよう教会を導きます。第二バチカン公会議は、現代世界憲章『ガウディウム・エト・スペス』(2025年12月7日にわたしたちが感謝をもって思い起こし、その60周年を祝った文書)において、この原則を特に正確に表現しました。「現世の事柄の自律性によって、被造物と社会そのものが固有の法則と価値を享受しているということが意味されているならば(…)自律性を要求することは全く正当である」10。この宣言は、被造物が根源的な善の刻印を帯びており、わたしたち人間の展望がそれを保護し、耕し、完成へと導かなければならないことを示しています。この点において、教会は現実をその深みにおいて解釈する助けとなる方法で自らを差し出します。教会は、すべての人の尊厳、共同体の結束、そして万人の善を促進する選択を、謙虚かつ揺るぎなく支持します。このようにして、教会は世界を圧倒することなく世界に寄り添い、聖霊が人類の心の中で支え続けておられる正義と平和の約束が、人間のあらゆる営みにおいて実を結ぶことができるようにするのです。

  3. 第二バチカン公会議は、神が歴史の展開において男女の自由を支持しておられることを認識し、教会共同体と政治共同体の区別を確認し、それぞれが完全な自律性をもって活動しなければならないことを強調しました。世界における教会の存在は、市民社会や公的機関との関係を通じても表現されます。これらの組織と関わることで、教会は社会的および政治的現実の価値を認め、その特有の責任を重んじ、個人の幸福を育み、社会の絆を強めるすべてのものを支持します。教会は、国家に属する機能を引き受けることを主張しません。それどころか、教会は共通善に奉仕する人々を尊重し、公的機関が社会の中で担う責任を固く認めます。同時に、教会に委ねられた使命は、現代の男女の現実の苦しみに取り組むよう彼女を促します。この寄り添いは、公的機関に取って代わろうとする意図から生じるものではなく、ましてやその働きへの暗黙の批判から生じるものでもありません。むしろそれは、人類の傷がより深刻な形で表面化するたびに、その傷に近づくよう教会を駆り立てる、福音的な愛から生じるものです。教会が介入する際、教会は善きサマリア人の模範に従い、慎み深さと寄り添いをもってそれを行い、緊急の必要性から生じるものが規範となることはできず、市民共同体に固有の制度的責任に取って代わることもできないことを認識しています。

  4. 現世の現実の自律性と、教会と政治のそれぞれの管轄領域の区別という、この二つの認識から出発することで、第二バチカン公会議が世界との関係において教会に定めた方向性をより明確に理解することができます。『ガウディウム・エト・スペス』は、次のように思い起こさせてくれます。「啓示された真理がより深く探求され、よりよく理解され、より適切に提示されるために、現代の多くの声に耳を傾け、それを識別し、神の言葉の光に照らして解釈することは、神の民全体、とりわけその牧者と神学者の務めである」11。「多くの声」に耳を傾けることは、単なる社会学的な作業ではなく、むしろ霊的な識別を必要とします。聖霊に導かれ、神の民は、文化的および社会的変容の中に、歴史を完成へと導くために来られるキリストの現存のしるしと、キリストの御顔を覆い隠す逸脱との両方を認識するようになります。このようにして、啓示された真理の本質的な核心は変更されるのではなく、むしろ明確にされ、具体的な選択を導き、個人および共同体の回心の道に霊感を吹き込み、構造改革を促進し、公的生活における新たな形態の福音の証しを支持するための生きた基準として採用されるのです。このようにして、歴史は、教会が福音の人間をより人間らしくする力について聖霊から教えを受けることを許す場の一つとして理解され、教会は、すべての人の尊厳と万人の善に奉仕する自らの教えを発展させることを学ぶのです。

人文科学との対話における神の言葉の知恵

  1. 教会は、「真、善、美」を真摯に求めるすべての人々を旅の同伴者と見なし、すべての人の尊厳を守り、被造物を配慮する上での「貴重な協力者」12と見なしています。第二バチカン公会議の司牧的アプローチ、すなわち時代のしるしに耳を傾け、識別し、解釈するようわたしたちを招くアプローチを採用し、御言葉の知恵に照らされながら、教会は人間の知と出会うことを恐れません。まことに、神の言葉は、正義の道を確立し、諸民族間の和解と平和の道を開くための信頼できる基準を提供します。これらの基準を現代の複雑な状況に適用するにあたり、哲学や人文・社会科学の貢献は不可欠です。これらの学問分野は、わたしたちが文化的、経済的、政治的な力学をより深く理解し、分析する助けとなります。聖ヨハネ・パウロ2世は、教会が「教導の務めを果たす助けとなる具体的な洞察をそれらから引き出す」13ために、社会科学の貢献を歓迎していることを思い起こさせました。このような知との対話は、福音の力を減ずるものではありません。それどころか、個人と共同体の生活を真に育むものをより明確に見極めることを可能にします。この視点に従い、教皇フランシスコは、多くの具体的な問題を扱う際、教会は「決定的な意見」14を提示すると主張するのではなく、科学的調査に耳を傾け、多様な意見を歓迎しつつ専門家間の真剣かつ誠実な議論を奨励することの重要性を認識していると強調されました。

  2. 福音と人間の知との間のこの実りある対話に養われ、教会はその社会教説を漸進的に発展させ、人間に関するキリスト教的理解に根ざした神学的および人間学的な整合性を特徴とする知恵の遺産を、歴史の中で培ってきました。この遺産は信仰とそれに対応する現実のビジョンから生じているからこそ、一連の技術的な解決策や、他と対立するような経済的・政治的モデルに帰着するものではありません。むしろ、それは異なる次元15、すなわち、出来事の解釈を導き、歴史的プロセスおよびそれが伴う選択に対する福音的な理解を支える原則の次元に属するものです。ここにこそ、社会教説の本来の機能があります。それは政治や制度の責任に取って代わることを主張するのではなく、共同の識別のための土台として自らを差し出し、人間の尊厳、共同体の活力、そして共通善にかなうものを認識し促進する助けとなるのです。

共有された識別としての社会教説

  1. 真理とは独占されるべき所有物ではなく、分かち合われるべき賜物であることを理解することは、権力に基づく存在形態を求める誘惑から教会を解放します。押し付けではない真理の穏やかな宣言という福音的アプローチを再発見するために、聖ヨハネ・パウロ2世は、「真理への奉仕における不寛容、さらには暴力の行使」16が黙認された時代を誠実に検証するようわたしたちを招きました。同じ脈絡において、わたしもまた、教会が「真理の独占を主張しない」17ことを再確認しました。なぜなら、真理は防衛すべき領土ではなく、共有すべき善だからです。教皇フランシスコは、その印象的な言葉「時は空間に勝る」18において、この同じ視点を表現されました。最も重要なことは、権力の座を占めたり文化的な拠点を防衛したりすることではなく、良いプロセスを開始し、それが成熟するのを可能にすることです。このようにして、福音の真理は上から押し付けられるものではなく、生活、共同体、文化の具体的な織り合わせの中で、時とともに成長していくのです。これは多様性を恐れる真理ではなく、むしろそれを歓迎し導く真理です。それは対立を排除するのではなく、それを変容させ、歴史が散逸させがちなものを再び結びつけます。この概念は、多面体のイメージ19によっても説明することができます。そこでは、福音の一つの真理が様々な角度から反映されているのです。

  2. このように、単一であると同時に多様でもある真理に開かれた態度は、教会の普遍性(カトリシティ)を深く表現しています。なぜなら、教会は全人類の家族を包み込みながら、諸民族や諸文化の具体的な状況の中にも深く入り込んでいるからです。第二バチカン公会議は、この普遍性によって「各部分は、他の部分と教会全体に対して固有の賜物をもたらす」20ことを思い起こさせます。このようにして、教会は相互の交流と、より完全な交わりに向けた共有された努力のおかげで、全体として、また個々の共同体として成長するのです。したがって、神の民は多くの民族から集められているだけでなく、異なる機能、召命、文化、伝統を通じて互いに結びついており、それぞれが互いを支え、豊かにするよう呼ばれていることになります。この視点から、聖パウロ6世は、歴史的状況の大きな多様性を考慮すれば、教会の社会教説がすべての文脈で有効な単一の回答を提示できると考えるのは非現実的であると認められました。21 このため、彼は各キリスト教共同体に対し、それぞれの国の現実を明晰かつ責任をもって解釈するよう招きました。教会の使命の普遍性と地域への根ざしとの間にある豊かな実りをもたらす緊張関係は、教会の生命に不可欠な側面です。なぜなら、教会は全世界を包含しつつ、福音が形をとる現実の舞台として、各文脈の具体的な問題に取り組むからです。

  3. これまで述べられてきたことに照らすと、教会の社会教説はより真正な姿で見えてきます。それは適用されるべき原則と規範のハンドブックではなく、共有された識別のプロセスなのです。それは、福音の永遠の真理と歴史の問いとの出会いから生まれます。それは自らが時代のしるしによって問いかけられることを許し、科学、文化、人間の経験の貢献から栄養を汲み取ります。したがって、わたしたちの兄弟姉妹の尊厳が侵害されたとき、政治が人類の悲劇に対処できないとき、経済が人間に反旗を翻したとき、あるいは科学がその管轄の限界を越えたとき22、教会は――他のキリスト教の諸教派や他宗教の信者たちとともに――自らの声を響かせなければなりません。それは支配するためではなく、交わりを促進するためです。このように理解されるとき、社会教説は歴史における交わりの神学となります。その歴史の中で、肉となった御言葉は対話、記憶、そして預言を通じて現存し続けるのです。

レオ13世から今日に至る社会教説の発展

  1. 教会が歴史の中に存在し、世界との対話に関わるあり方を概説したうえで、わたしはここで、19世紀から今日に至るまでの大きな社会的変容に応えてきた、教導権における社会教説の発展について考察したいと思います。当然のことながら、わたしはこの教えの豊かな内容のすべてを十分に論じることはできません。その基本原則は『教会の社会教説綱要』に提示されており、最近の教導権の教えによってさらに探求されています。また、亡き尊き先任者たちの回勅、とりわけ『ラウダート・シ』や『フラッテリ・トゥッティ』において展開されたすべてのことを体系的に探求することもできません。それにもかかわらず、本テキストがその伝統との連続性の中に立っていることを示すために、いくつかの不可欠な点を強調したいと思います。また、この伝統の中で、人間と社会に関する啓示された真理の変わらぬ核心が、歴史的状況に耳を傾け、現代の課題に応えるための刷新された能力と、いかに絶えず結びついているかを強調したいと思います。それでは、回勅『レールム・ノヴァルム』によって幕を開けた時期から始まり、この発展の重要な段階のいくつかを見ていきましょう。

教会の社会教説の初期段階

  1. わたしたちが今日「教会の社会教説」と呼んでいるものは、近代の自然発生的な産物ではありません。それはむしろ、聖書、教父、そして中世および近代の神学的・法学的な発展に根ざした、社会生活に関する教会の考察の長い伝統を受け入れ、構造化した結実なのです。「教会の社会教説」という表現は1950年にピオ12世によって作られましたが23、その内容は、レオ13世の回勅『レールム・ノヴァルム』によって、社会的教えの有機的な集成(コルプス)として形をとり始めました。レオ13世は、自らの時代の「新しい事柄」――資本と労働の対立、労働力問題、そして経済的および社会的変容――に直面し、単にその混乱を認識することにとどまらず、これらの状況を教会の司牧的な使命の領域として見なしました。彼はそれらを厳密な識別のもとに置き、神の似姿として創造された人間の全人的なビジョンと福音の光に照らして、その原因と可能な解決策を明らかにしました。聖ヨハネ・パウロ2世は、このアプローチを社会教説の「永続的なパラダイム」24と見なしました。それは、歴史的変化に直面したとき、教会が社会的現実を検証し、それについて声明を出し、公正な解決策を見いだすための道筋を示すという、自らの権利と義務を行使する模範的な実践なのです。このようにして、信仰の永遠の内容と古くからの教会の知恵は、福音に忠実でありながら、あらゆる時代の「新しい事柄」に応えて成長する生きた教説の中に表現を見いだすのです。

  2. レオ13世の回勅『レールム・ノヴァルム』は、教会の社会的な教えの発展における一つの節目を構成しています。この文書は、労働と労働者の尊厳をその考察の最前線に置き、自分自身と家族のための公正な賃金への権利を確認し、人間は資本や利益よりも優先される根本的な価値を持っていることを認識しています。また、その不可欠な社会的役割とともに私有財産を擁護し、労働者の結社を尊重し、階級闘争のメンタリティに代わるものとして社会の異なる構成要素間の協力形態を提案しています。したがって、ピオ11世がこれをキリスト教的社会活動の「大憲章(マグナ・カルタ)」25と定義したことは驚くべきことではありません。『レールム・ノヴァルム』において、人間と社会生活に関する教会の古くからの知恵は、産業時代に応えうる新たな形をとり、その後の数十年でさらに発展することになる社会教説のための最初の主要な体系的枠組みを提供しました。レオ13世が記述した歴史的条件の多くは変化しましたが、少なくとも二つの洞察は今日でも非常に適切なものです。それは、金融や生産性のみに焦点を当てたあらゆる考え方に対する人間の労働の優位性――それに伴い、搾取の対象となりやすい人々と家族への配慮――、そして、福音を宣べ伝えることと、より公正な社会秩序を追求することの間の不可分な結びつきです。それゆえ、『レールム・ノヴァルム』は、人間社会の構造に影響を与えない真の福音宣教は存在しないということを、わたしたちに思い起こさせ続けているのです。

  3. ピオ11世の回勅『クアドラジェジモ・アンノ』は、世界的な大経済危機の最中であった1931年、『レールム・ノヴァルム』の40周年に発表され、教会の社会的な教えのさらなる一歩を印しました。この回勅は、「労働力問題」に対処することに限定せず、経済的および政治的秩序の全体構造を包含するようにその焦点を広げました。この回勅は、一部の人々の手への経済力の集中を非難し、個人の自由と責任を損なう無制限の競争と集産主義的な計画の双方を批判し、労働者の結社の権利を強く確認し、賃金は成果だけでなく、労働者とその家族の必要にも見合ったものであるべきだという要求を繰り返し述べています。この枠組みの中で、ピオ11世は体系的に補完性の原則を定式化しました。これは後に社会教説の礎石の一つとなるものでした。この原則によれば、個人、家族、中間組織、地域共同体が実行できることを、より上位の権威が実行すべきではありません。これらの貢献と並行して、彼の教導権における様々な介入――回勅『ノン・アッビアーモ・ビゾーニョ』や『ミット・ブレンネンダー・ゾルゲ』から『ディヴィーニ・レデンプトーリス』に至るまで――において、ピオ11世は私有財産の社会的役割を明確に思い起こさせ、人間の尊厳をおとしめ、社会生活を抑圧し、国家をその正当な価値の上に高揚させ、人種によって差別するような全体主義の形態を非難しました。彼の社会的な教えの少なくとも三つの洞察は、今日でも特に適切です。すなわち、不公正は個人の行動だけでなく、経済的および制度的な構造にも関わるという認識。権力のさらなる集中を避けつつ、結社や共同体の絆を強めることを求める補完性の原則の重要性。そして、労働の尊厳、公正な報酬、家族が尊厳ある生活を送るための真の可能性との間の関連性です。

  4. 第二次世界大戦の悲劇的な状況と、それに続く復興の数年間において、ピオ12世の教えは社会教説の発展に重要な貢献をしました。これは特に彼のクリスマスのラジオ・メッセージに当てはまり、その中で彼は、正義、平和、そして人間の尊厳の認識に基づく国際秩序の枠組みを描き出しました。これらのメッセージにおいて、教皇は自然法への訴えに基づく社会との対話を提案しました。自然法とは、個人や国家の利益に先行する客観的な原則の集合体として理解され、国家の内部生活とその相互関係の双方を規制しなければならないものです。ピオ12世はまた、経済的および社会的秩序における職能団体、労働組合、および様々な中間組織に決定的な役割を帰しました。彼は社会のこうした組織化された形態を、市民社会の均衡と共通善の保護のための不可欠な防波堤として認識しました。彼は権力の濫用から守るための健全な法の支配の必要性を確認し、権威の適切な行使を保証するための手段として民主主義を認識しました。同時に、彼は法律を功利や力に基礎づけようとするあらゆる試みに対して警告を発し、最も強い者の利益に支配された国際秩序は、弱い民族を抑圧にさらし、国家間の信頼を根本的に損なうものであると想起させました。最後に、ピオ12世は、国家間の深刻な経済的格差を、紛争を煽る要因の一つとして特定しました。26 今日のわたしたちの時代は、新たな形態のグローバルな権力と拡大する不平等を特徴としていますが、以下の三つの指針は引き続き特に重要です。すなわち、法律が利益に優先する必要性、経済的格差が緊張と暴力の温床であるという認識、そして個人と国家の間を仲介できる結社のネットワークの必要性です。これらの指針は、社会教説がグローバル化の力学を解釈し、より公正で平和な国際秩序を促進することを可能にする重要な基準を提供し続けています。

第二バチカン公会議の時代

  1. 教会の社会的な教えの新たな段階は、社会問題のグローバルな次元と権利の言語に大きな重点を置いた聖ヨハネ23世とともに始まりました。『マーテル・エト・マジストラ』において、彼はキリスト教の信仰を、天と地を結びつけることのできる光として提示しました。彼は、教会の第一の使命は永遠の善の聖化と宣言であるとしながらも、教会は人々の日常生活の具体的な必要を軽視せず、すべての真の人間的な善に関心を寄せていることを思い起こさせました。27 この人類の統一されたビジョンに基づき、ヨハネ23世は、社会生活には、組織化し協力するよう呼ばれている市民や集団の自発的行動と、個人の自由や責任を抑圧することなく調整と支援を提供しなければならない国家の行動との間のバランスが必要であると強調しました。ゆえに、彼は労働に対する公正な報酬、労働者の参加、そして国家間の広がる格差に注意を喚起しました。数年後、『パーチェム・イン・テリス』において、ヨハネ23世は初めて信徒だけでなくすべての善意の人々に宛てて語りかけ、人間の尊厳を基本的人権と義務の認識と有機的に結びつけ、真理、正義、愛、そして自由に基づく社会の方向性を――国際レベルにおいても――提案しました。28 広範な紛争と新たな形態のグローバルな相互依存によって特徴づけられる今日において、彼の思想の以下の側面は特に重要であり続けています。すなわち、彼の呼びかけの普遍的な視点、共有された枠組みとしての人権への言及、そして永続的な平和にはすべての人の尊厳に触発された制度と諸民族間の関係が必要であるという彼の確信です。

  2. 第二バチカン公会議は、現代世界における教会の自己理解において一つの転換点となりました。現代世界憲章『ガウディウム・エト・スペス』において、公会議は、抽象的な概念ではなく、歴史的状況の具体的な現実について考察することにコミットし、人類に近く、世界と関わる教会のイメージを提示しました。このテキストは、婚姻と家族、経済と社会生活、政治共同体、戦争と平和という主要な問題を取り上げています。そして、経済的および制度的構造は、それが人間の全人的開発に奉仕し、すべての人の責任ある参加を促進する範囲においてのみ公正であると主張しています。29 教会の社会教説に対するこの公会議文書の重要性は、テーマ別の考察のための地平を切り開いたことだけでなく、福音と人間の専門知識に導かれながら歴史的変化を解釈するようわたしたちを招く、その識別の方法にもあります。このアプローチは、世界との対話が教会にとって戦術的な選択ではなく、彼女の使命の具体的な表現であることを明らかにしています。なぜなら、福音はパン種のように、社会の構造を内側から変容させ、より偉大な人間性へと向かう道を切り開くことができるからです。宣言『ディグニタティス・フマネ』も、同じ文脈に含めることができます。ここで公会議は、信教の自由が人間の尊厳に根ざした基本的人権であり、人々が自らの良心に反して行動することを強制されたり、私的および公的に真理を求め公言することを妨げられたりしないように、法によって保証されなければならないと認識しました。30 この原則は今日でも非常に関連性が高く、個人を保護し、多元的で平和な社会を構築するための決定的な基準を社会教説に提供し続けています。

  3. 聖パウロ6世の教皇職の間に、単なる戦争の不在に還元されない、全人的開発の範囲内で形をとる平和の理解が現れました。『ポプロールム・プログレシオ』の中で、彼は開発を、より非人間的な生活条件から、より人間的な生活条件への移行として説明しました。彼はさらに、それを「各人と全人間」31、すなわち人間のあらゆる次元と、例外なくすべての人々に関わるプロセスとして理解しました。この理由から、パウロ6世は、このように理解された開発は、実際には「平和の新しい名前」32であると断言することができました。なぜなら、それは不公正と紛争の根源を根絶し、すべての人にとってより尊厳ある生活の機会を創出することを目指しているからです。「正義と平和教皇委員会」の設立もまた、豊かな国と貧しい国の間に広がる格差と、すべての人にとってより人間的な生活条件を真に促進する政策の必要性を念頭に置きつつ、この洞察に教会的および国際的なレベルで安定した形を与えようとする試みとして、この観点から見なされるべきです。

  4. 『レールム・ノヴァルム』の80周年を記念して書かれた『オクトジェジマ・アドヴェニエンス』において、パウロ6世はこの視点を脱工業化社会に適用しました。この社会は、都市化、新たな形態の貧困、そして個人と共同体の未来に疑問を投げかける急速な文化的変化によって特徴づけられていました。パウロ6世は、福音はわたしたちの時代とは大きく異なる歴史的および文化的背景の中で宣べ伝えられ、書き記され、生きられたものであるにもかかわらず、そのメッセージは「時代遅れ」ではないと信じていました。33 むしろ、福音は、人間、人間関係、権威、そして共通善に関するビジョンを提供しており、それは今日においても経済的、政治的、文化的選択を導く能力を備えています。言い換えれば、福音が依然として意味を持つのは、絶え間なく変化する状況の中で、何が人間をより人間らしくし、何が非人間化するのか、何が解放し、何が抑圧するのかを認識するための基準を提供するからです。教会の社会教説にとって、パウロ6世の最も要求の厳しい遺産はまさにこの点にあります。すなわち、人間の尊厳にふさわしい開発から排除されている人々が世界にいる限り、キリスト教共同体は理論的な平和の宣言に満足することはできないということです。むしろ、人々が周縁化されている場所から出発し、福音によって、特定の経済的および政治的構造に判断を下すことを許さなければなりません。それらの構造は――ヨハネ・パウロ2世が後に思い起こさせるように――真の「罪の構造」34となり得るからです。結果として、開発のプロセスにおいて、いかなる人も、あるいはいかなる民族も、使い捨ての対象として扱われることはなくなるのです。

最近の教導権

  1. 聖ヨハネ・パウロ2世の豊かな社会的な教えは、20世紀の巨大なイデオロギー・システムの危機と、経済のグローバル化の始まりが交差する位置にあります。『レールム・ノヴァルム』の出版から90年後に書かれた回勅『ラボーレム・エクセルツェンス』は、労働に関する考察の新たな道を開きました。この回勅は、労働者が人格として扱われているのか、それとも単なる生産コストとして扱われているのかを明らかにするため、社会経済システム全体の正当性を検証する具体的な手段として公正な賃金を提示しています。35 労働は単なる対処すべき問題や収入を得る手段とは見なされず、人間にとっての根本的な善であり、経済活動の原則であり、社会問題全体を解く鍵であると見なされます。人間は労働を通じて、自らの自由、創造性、そして協力の能力を発揮し、社会の文化的および道徳的な向上に貢献するのです。36 これに照らせば、様々な種類の雇用の不安定さ、分断されたキャリアの道筋、および自動化は、単に効率の観点からのみ評価されるべきではなく、労働者の尊厳、十分な報酬を得る権利、そして社会に参加する真の可能性との関連において評価されなければなりません。

  2. 『ポプロールム・プログレシオ』の20周年を記念する回勅『ソリチトゥード・レイ・ソシアリス』において、ヨハネ・パウロ2世は低開発という災いについて再検討しました。彼は、貧しい国々の経済発展を加速させ、産業化のプロセスを支援しようとした数多くの試みが失敗に終わったことを認め、世界の北と南の間の絶え間なく、事実として拡大している格差を指摘しました。37 彼はまた、最も強い経済国によって管理され、弱い経済国を抑圧しながら構造的に自国の利益を優先する経済的、財政的、および商業的なメカニズムを非難し、それらが単なる技術的ではなく、深刻な倫理的精査の対象となるよう求めました。38 この文脈において、連帯は、個人、民族、国家間の具体的で共有された責任として理解されました。それは、パウロ6世が提唱した「愛の文明」に向けられた社会的友情、あるいは政治的な愛の一形態です。39

  3. 『レールム・ノヴァルム』の百周年にあたり、回勅『チェンテシムス・アンヌス』は、ソビエト体制の崩壊と、民主主義および市場経済の台頭に関する考察を提供しました。聖ヨハネ・パウロ2世は、民主主義が市民の実質的な参加を保証し、彼らが指導者を選挙で選び、平和的に交代させることを可能にし、特定の利益やイデオロギー的な利益に動機づけられた少数のエリート層によって権力が独占されるのを防ぐ限りにおいて、教会は民主主義を高く評価するというピオ12世のメッセージを繰り返しました。40 同様に、教会は、市場や民間の自発的行動が道徳律に従属し、連帯の原則に導かれ、利益の論理のために最も弱い人々を犠牲にしない場合にのみ、その肯定的な可能性を認識します。41 これは教会の社会教説に特に関連性の高い遺産を加えています。労働の尊厳、諸民族間の連帯、民主主義と市場経済の批判的評価の間の関連性の確認は、新たな形態の搾取、排除、および政治的代表の危機を評価するための基準を提供し続けています。

  4. 教皇ベネディクト16世は、その社会回勅『カリタス・イン・ヴェリターテ』において、『ポプロールム・プログレシオ』で提示された開発の概念をグローバル化に照らして解釈し、再評価および拡張しようと努めました。彼は、そのような開発は「すべての人の利益となり、真に持続可能な真の成長」42へと結実すべきであると指摘しました。それはすなわち、真に包括的であり、被造物の限界を尊重する経済的進歩です。しかし彼は、豊かな国々では新しい種類の貧困や前例のない形態の排除が出現している一方で、貧しい地域では、非人間的な貧困の状況と並行して、少数のマイノリティが消費主義的な豊かさの中で生活していることを再確認しました。43 さらに彼は、資本と生産手段の広範な移動を特徴とする新しいグローバルな経済および金融システムが、国家の政治的権力と、経済的プロセスに影響を与えるその能力を低下させたと観察しました。44 このため、ベネディクト16世は、経済活動は商業主義的なメンタリティの拡大を通じて社会問題を解決できると主張することはできず、共通善に向けて方向づけられなければならないと繰り返し述べました。そしてその共通善に対しては、政治共同体が独自の不可欠な責任を負っているのです。45

  5. ベネディクト16世は、愛(カリタス)が常に真理と結びついていることを条件として、それが「教会の社会教説の核心にある」46と述べ、自らの分析の中心に愛を据えました。彼はまた、まさに社会的、法的、政治的、そして経済的な分野において、道徳的妥当性を退けようとする傾向があることに懸念をもって注目しました。彼の貢献の独創性は、開発、正義、制度、そして市場が中立的な現実ではなく、真理における愛が歴史的表現を見いださなければならない空間であることを示した点にあります。この教えは、拡大する不平等、金融市場の圧力、環境危機、および政治への信頼の欠如を考慮すると、今日特に関連性があります。それは、包摂的で持続可能である能力についてあらゆる開発モデルを評価し、共通善に基づいて経済と政治の関係を再構築し、公的生活における愛の決定的かつ生成的役割を認めることへの招きとして立っています。

  6. 教皇フランシスコの社会的な教えは、人間の希望と脆弱さというレンズを通して歴史を見つめ、それらを福音との対話に導くようわたしたちを招く『ガウディウム・エト・スペス』の道筋に沿って展開されています。このアプローチは『福音の喜び(エヴァンジェリイ・ガウディウム)』において特に明確に現れており、そこで彼は、キリスト教の宣言には本質的に社会的な次元があり、貧しい人々、移住者、そして新たな形態の奴隷制の犠牲者の叫びに耳を傾けることのできる教会を求めていると述べています。フランシスコのシノドス的な教会への主張、すなわち「ともに歩み」、福音の光に照らして時代のしるしを読み解こうと努め、歴史を共有する貧しい人々によって自らもまた福音化されることを許す教会という主張も、この視点に適合しています。47

  7. 『ラウダート・シ』において、フランシスコは社会回勅の中で環境危機に対する初の重要な体系的扱いを提供し、それが孤立した問題ではなく、現代の社会経済的危機の生態学的側面であることを示しました。総合的(全人的)エコロジーに向けた彼の提案は、わたしたちの共通の家への配慮と貧しい人々への優先的選択を結びつけ、「地球の叫びと貧しい人々の叫び」48は切り離すことができないと強く断言しました。この光のもとで、財の普遍的目的が最前線にもたらされました。それと並んで、すべてを支配されるべき対象へと還元しようとするテクノクラシーのパラダイムに対する批判、使い捨ての精神構造によって脅かされている人間の労働の擁護、そして世代間の正義の必要性が強調されました。最後に、彼は政治と金融の分野で働く人々の間の真の対話を提唱し、どちらも自己言及的にならないようにしました。

  8. 社会の絆の崩壊、「細切れの第三次世界大戦」、個人主義的なグローバル化、そしてパンデミックが共同体のつながりに与えた影響に直面し、フランシスコは『フラッテリ・トゥッティ』において、社会的友情と普遍的な兄弟愛を選ぶ人類の夢を復活させようと努めました。彼は、出会いの文化、共通善を追求することのできる「より良い政治」、和解の道、そして「万人のための土地、家、そして仕事」49を保証する世界を提案しました。最後に、『ディレクシット・ノス』において、彼は、これらの重要な社会的な取り組みは、キリストとの個人的な関係から切り離すことはできないと示しました。神の言葉に立ち返り、彼は、イエスの御心の愛に対する最も真実な応答は、わたしたちの兄弟姉妹に対する具体的な愛であると思い起こさせ、「わたしたちが愛に愛で報いるための、これ以上の方法はありません」50と断言しました。

信仰の光に照らして歴史を読み解く

  1. この歴史的概観を考慮すると、教会の社会教説が机上で考案されたプロジェクトの結果ではなく、むしろ、それぞれの教皇が――第二バチカン公会議とともに――各特定の時代の「新しい事柄」に照らして独自の貢献を行った、忍耐強いプロセスの産物であることが明確になります。自らの時代の課題に応えて、それぞれが福音に従って歴史的変化を解釈し、単一の遺産の異なる側面を光の中に導き出しました。すなわち、人間の尊厳、労働の価値、財の普遍的目的、連帯と補完性、被造物の保護、そして平和と兄弟愛の中心性です。その結果、常に直線的とは限らないものの、調和のとれた発展がもたらされました。それは、異なる強調点、進歩的な洞察、そして時には、過去のものを断ち切ることなく、その含意が成熟するのを可能にするような視点の変化によって特徴づけられています。今日、わたしたちが共有された原則と基準の集成(コルプス)について語ることができるとすれば、それは歴史に対するこの信仰に基づく解釈が決して中断されることなく、各世代が突きつける課題に対して常に開かれたままであったからです。わたしたちの時代を導く内的な一貫性と能力をより効果的に把握するために、わたしは今、信者の個人生活および公的生活における識別を導く、社会教説の偉大な原則に注意を向けたいと思います。

第二章: 教会の社会教説の基礎と原則

  1. 教会の社会教説は、歴史、文化、および諸科学との対話の中にある、生きた現実です。同時に、それは普遍の真理の核心を大切に保管しています。このため、それは今日においても信者の個人的および社会的生活を導くことのできる、一種の知恵と見なすことができます。この第二章において、わたしは教会の社会教説の基礎と原則のいくつかに焦点を当てたいと思います。それらは、特に人間の尊厳という観点から、現代の「新しい事柄」を解釈する助けとなるものです。人工知能の時代において人間を保護するために、今日わたしたちは共通善、財の普遍的目的、補完性、連帯、そして社会正義について、今一度熟考しなければならないとわたしは信じています。これらの原則の調和のとれた関係のためには、それらを総合的に考察し、それらがどのように関連し、相互に補完し合っているのかを明確にすることが必要であると、わたしは確信しています。

  2. これらの考察を提供するにあたり、わたしの希望は、何よりもまず、信徒や善意の人々が、前述の原則を日常生活、家族関係、仕事、そして社会との関わりにおいて実践する義務を再発見するのを助けることです。そうすることで、彼らは生活の具体的な出来事の中に神の愛を体現するという目的にインスピレーションを受けることでしょう。同時に、わたしは学術機関や大学に対し、これらの原則に新たな推進力を与え、デジタル革命に対処する上で適切かつ効果的な方法で適用するよう奨励したいと思います。このようにして、神学的および哲学的な探求は、教会の司牧的な歩みをさらに深め、支持することができ、また信者の良心を啓発し、わたしたちの社会の生活をより公正で兄弟愛に満ちたものにするという、教導権の任務に貢献することができるでしょう。

社会教説の基礎

人間:三位一体の神の似姿

  1. 教会の社会教説は、わたしたちを信仰の核心、すなわち、生ける神の神秘へと導きます。この神は、イエス・キリストにおいて啓示されました。キリストは、位格の交わり――父、子、そして聖霊――として、関係性における愛そのものであり、相互の自己贈与と世界との分かち合いの中に表現されます。51 公会議が思い起こさせたように、人間は神との交わりへと召されており、「誠実な自己の贈与を通してしか自己を完全に見いだすことはできません」52。実際、彼らの最も深い召命は、受け取り、分かち合う愛の三位一体の力学に加わることなのです。

  2. 愛である神の神秘が社会教説の源泉であるとすれば、受肉の御言葉であるイエス・キリストの御顔にこそ、その最も具体的な表現が見いだされます。人となることによって、神の御子はわたしたちの歴史に入り、肉体をとられ、ご自身を父と聖霊に結びつける愛をともに携えて来られます。キリストにおいて、「人間の神秘は(…)真の光を帯びます」53。なぜなら、彼の人間性は完全に自由であり、他者に開かれ、健全で美しい関係を築くことができ、完全なる自己の贈与に身を委ねているからです。キリストを信じる人々は、彼の受難、死、そして復活の神秘から始まった大いなる刷新の業に関与しており、神の国の建設に協力し、すべての男女を兄弟姉妹、すなわち一人の父の子供として受け入れることを学びます。このようにして、福音の宣言とキリスト教的な生活はともに、聖霊の働きに導かれながら、世界に社会的な結果をもたらす傾向があるのです。54

  3. 人間に関するキリスト教的理解の核心には、男女は三位一体の神の似姿(創世記1章26-27節参照)として創造されたという、聖書の偉大な肯定があります。関係性のために創造されたすべての人は、神と、他者と、そして被造物との交わりに入るよう、神によって計画され、望まれています。人間の尊厳は、その人の能力、富、生活上の地位、あるいはなされた選択の善悪に依存するものではありません。むしろそれは、一人ひとりの人に先行し、これを超える賜物であり、神の尽きることのない愛の表現として神から授けられたものです。この理由から、人間は常に「教会の道」55であり、あらゆる真正な全人的開発の歩みの中心であり続けます。56

すべての人間の平等の尊厳

  1. 聖ヨハネ・パウロ2世は、「人間の尊厳とその唯一性に対するこの高まった意識、および良心の歩みに対して払われるべき尊重は、確かに近代文化の積極的な成果の一つを代表しています」57と述べました。この声明は、すでに第二バチカン公会議によって示されていた方針に従うものです。公会議は、すべての人の崇高な尊厳、物質的な事物に対するその優位性、そして普遍的かつ不可侵の権利と義務に対する認識の高まりに注目していました。58 人間の尊厳に対するこの評価の高まりが、今日の社会における新しいイデオロギーや非常に強力な利益の圧力によって覆い隠されないようにすることが重要です。これらのイデオロギーの中で、わたしが特に狡猾だと考えるのは、すべての人が自らの価値を獲得するか、正当化しなければならないと示唆し、より効率的または効果的な人々に大きな価値を帰するまでに至るイデオロギーです。この視点に立てば、人々は結果を達成するための手段、利用され搾取されるべき資源に還元されてしまい、もはや手段化されてはならない固有の目的として認識されなくなります。しかし、人の価値は、その人が達成したり生み出したりするものに依存しません。人間であるというだけの理由で、すべての人に適用される権利があり、いかなる人間の権力もそれを正当に否定したり、恣意的に制限したりすることはできません。59

  2. わたしたちが尊厳について語る時、常に同じ意味でその言葉を使用しているわけではありません。時折わたしたちは道徳的尊厳、すなわち人が自らの選択や行動を方向づける方法を指して言います。またある時には、社会的尊厳について考えます。これは人の生活条件や社会から受ける具体的な尊重を指します。他の場合には、実存的尊厳に言及します。これは人が自らの価値や人生の価値をどのように認識しているかを意味します。尊厳のこれらの側面は高められることもあれば、損なわれることもあります。これらの概念に加えて、より深く重要な存在論的尊厳のレベルがあります。これは、単に存在するということ、すなわち神によって望まれ、創造され、愛されたことによって、すべての人間が有する尊厳です。60 いかなる罪、失敗、屈辱、または排除も、神が望み、存在へと招かれた人間の命の深遠な価値を減ずることはできません。61

  3. したがって、一人ひとりの根本的な尊厳は獲得されるものでも、稼ぎ出されるものでもありません。また、正当化される必要もありません。最近の宣言『ディグニタス・インフィニタ(無限の尊厳)』は、この主題に関する教会の思想の要約を提供しています。「すべての人格は無限の尊厳を持っています。その尊厳はその人の存在そのものに不可分に根ざしており、その人が遭遇するかもしれないあらゆる状況、状態、あるいは状況においても、それを超えて優位に立ちます」62。言い換えれば、常に、いかなる例外もなく、ということです。すべての人の尊厳が無限であると表現できるのは、聖ヨハネ・パウロ2世が述べたように、63二つの理由によります。第一に、わたしたちをご自身との友情へと招く神の愛が無限だからです。第二に、神の愛は絶対的に無条件だからです。すなわち、わたしたちがどれほど探し求めても、神の愛を消し去ったり否定したりできるものは決して見つからないという意味においてです。

人権の至高の価値

  1. 教会は、「人権の特定と宣言に向けた動きは、人間の尊厳の避けられない要求に効果的に応えようとする最も重要な試みの一つである」64と感謝をもって認識しています。この点に関して、聖ヨハネ・パウロ2世は、1948年12月10日に国連で採択された『世界人権宣言』は、現代の人類の良心の最高の表現の一つであり続けていると述べました。65 それは「人類の長く困難な道のりにおける一つのマイルストーン(道標)」66なのです。この理由から、キリスト教の観点から見れば、人権は人間に対する外部からの付け足しではなく、本質的な人間の尊厳の表現であり、国際社会はそれを保護し促進するよう召されています。

  2. 人権は、「人格と人間の尊厳に内在する」67ものであるため、不可侵です。したがって、人権は普遍的であり不可譲です。68 それらは、すべての男女の共通の尊厳に根ざしているからこそ、実践的な結果と法的効力を持ちます。なぜなら「人権を宣言しても、同時にすべての人が、あらゆる場所で、すべての人に対して、それを尊重する義務を確実にするためにあらゆる努力が払われないのであれば、それは虚しいものとなる」69からです。これらの権利の中で、第一のものは、受胎から自然死に至るまでの生命への権利であり70、これがなければ他のいかなる権利を行使することも不可能です。人工妊娠中絶、罪のない者の殺害、および安楽死の事例のように、この基本的人権が否定される時、わたしたちは教会が重大な過ちと見なす選択に直面しています。71

  3. わたしたち自身の時代に目を向けるとき、人権の保護が二つの特に深刻な危険にさらされているという事実を無視することはできません。第一の危険は、技術の進歩が人間の尊厳に対する公然あるいは暗黙の侵害と並行して進む一方で、これらの権利が純粋に形式的な意味で宣言されることです。第二の危険は、実際には第一の危険の根本原因ですが、わたしたちが「わたしたちの決定と法律を支える確固たる基盤の探求」72を放棄してしまったために、その普遍性の基盤を認識できなくなっていることです。教皇フランシスコは、この最後の問題を過小評価しないようわたしたちに促しました。彼は、理性が人間性を真摯に検証するとき、それが人間性から派生するものであるがゆえに、すべての人に適用される価値を発見する能力があることを指摘しました。もしこの探求の課題が放棄されるなら、今日不可侵と考えられている権利が、将来、恐怖に陥ったり操作されたりした大衆から見せかけの合意を得た後で、権力者によって疑問視されたり否定されたりする事態が生じることも想像に難くありません。73

  4. すべての人の価値とその権利に対する認識が高まるとともに、マイノリティの権利に対する認識も成長してきました。しかし、世界中で多くの人々、すなわち女性の権利が平等かつ真に保証されることを確実にするためには、まだ長い道のりがあります。「排除、虐待、暴力の状況に耐えている女性たちは二重に貧しい。なぜなら、彼女たちはしばしば自分の権利を守る能力に欠けているからである」74というのは事実です。したがって、男女が平等な尊厳と権利を持っていると単に述べるだけでは十分ではありません。それが、法律、雇用へのアクセス、教育、社会的および政治的責任、そして社会が女性の貢献に耳を傾け、評価する方法などの具体的な決定に反映される必要があります。この格差が続く限り、社会が女性も男性と同じ尊厳を持っていると真に、そして完全に認識しているとは言えません。

  5. 重要なのは個人であり、一人ひとりの人間であり、そしてその家族です。特定の人口を支持する社会運動、共同体のイデオロギー、および壮大な政治的宣言は、それらが個人の繁栄――男性と女性が、彼らの不可譲の権利とともに繁栄すること――につながらない限り、無価値です。同様に、もしわたしたちが、多くの人々がまともな仕事も、保護も、基本的な必需品へのアクセスもないまま生活し続けることを容認するならば、個人の自由や私企業の事業を称賛するだけでは十分ではありません。

社会教説の原則

共通善の原則

  1. すべての男女が、いかなる人間の権力も裏切ったり無効にしたりすることのできない不可譲の尊厳と権利を有していることを認識することは、わたしたちの経済的および政治的選択、ならびにわたしたちの都市の構成を含め、わたしたちがともに生きるあり方を形作ることを要求します。ここから、わたしが強調したい社会教説の最初の主要な原則、すなわち共通善が生じます。わたしたちはそれを、すべての人に認められた尊厳の社会的表現と説明することができます。ベネディクト16世が、教会が常に守らなければならない譲れない価値観について言及した際、彼はその中に「共通善の促進」75を含めました。キリスト者にとって、自らの利益の狭い枠を超え、自らの能力の範囲内で共通善に身を委ねることは、命の促進と同様に、譲れない価値観なのです。

  2. 第二バチカン公会議は、共通善とは「集団としても個人としても、人々がより完全に、より容易にその完成に到達することを可能にする社会条件の総体」76であると断言しました。この定義は、わたしたちに貴重な最初の基準点を提供してくれます。なぜなら、共通善は単なる条件や制度のリストに還元することはできないからです。それは個々の利益の総和でも、特定の利益の交差する部分でもありません。それはすべての人に属するより大きな善であり、わたしたちの共同の努力によってのみ達成され、育まれ、保護されるものです。人の道徳的行動が真の善の選択においてその完成を見いだすように、社会的行動はこの共有された善に向けられる時にその充満に達すると言えます。77

  3. この意味で、わたしたちは全体が「その部分の総和よりも大きい」78と言うことができ、まさにこの理由から「個人の利益の単なる総和は、全人類の家族のためにより良い世界を生み出すことはできない」79のです。まことに、他者を気遣うことなく単に自らの進歩を追求するだけで万人の善に貢献するのに十分であると考えるのは幻想です。この見方は、人々を拡大し、人々に影響を与える社会的な善のネットワークを創り出す「相互依存」80の結果である共通善に固有の特有の価値を無視しています。共通善とは、様々な行動、イニシアチブ、努力、および決定を結びつける相互作用と相互影響の結果としての「プラス(付加価値)」なのです。もし個々の善をただ足し合わせるだけであれば、それらを超越すると同時にそれらを豊かにするこの「プラス」の存在を説明することはできないでしょう。

  4. 共通善の追求こそが、単なる個人の集合体としてではなく、人々が自ら互いに結びつき、公共の事柄(レス・プブリカ)に対して共同で責任を負っていることを認識するようになる生きた現実として理解される民に命を与えます。この意味で、すべての人は「平和的で多面的な出会いの文化の成長を通じてこれを達成しようとする意志と統合への望みを求める、遅く困難な努力」81を通じて、自らの民の建設に貢献するのです。共通善のためにともに働くことは、共有されたビジョンを持つことを意味します。人々の間には多くのイデオロギー的および実践的な違いがあり、また異なる利益と頻繁な意見の相違があることは明らかですが、だからといって、誰もがともに前進できる共有されたビジョンの創造を可能にする一連の基本的な合意を確立するための対話に従事することが不可能であるというわけではありません。

  5. 市民社会の結束、一致、そして適切な組織化を保証し、すべての人の貢献によって共通善が追求されるようにすることは、国家の責任です。実践的な言葉で言えば、これは公権力が「異なる部門の利益を正義の要求と調和させる」82という繊細な義務を負っており、最も弱い立場にある人々を置き去りにすることなく、個人の利益と共通善の間のバランスを追求することを意味します。政治が長期的な視野を放棄し、短絡的な計算や不毛な二極化に陥るとき、共通善の言葉は信頼性を失い、同時に社会の不平等と分断が拡大します。

  6. これは国際政治にも当てはまります。国家間の分断が広がるにつれ、対立と侵略のメンタリティが定着し始め、より団結し兄弟愛に満ちた世界へと向かう困難な道は、新たな痛みを伴う後退を余儀なくされています。この文脈において、全人類の家族にとってより公正な開発に向けた共有された道のりについて語ることは、「狂気のように聞こえます」83。しかし、わたしたちは希望を失ってはなりません。わたしはすべての人に、諸民族と国家の正当な多様性を妥協することなく、グローバルな共通善を保護することのできる、協力とより効果的な国際機関のあり方を構想するよう招きます。まことに、共通善の促進は、諸民族が生存し、独自のアイデンティティを保持し、国家の家族に独自の質を提供する権利の尊重から決して切り離すことはできません。84 さらに、国家を排除または従属させようとするいかなる試みや計画も、著しく不道徳であり、それゆえに受け入れられるものではありません。

財の普遍的目的の原則

  1. 「共通善の数多くの含意の中で、財の普遍的目的の原則は即座に重要性を帯びます」85。まず第一に、この原則は、地上の財――土壌、水、空気、および天然資源――は、すべての人の命を維持するために神によって全人類の家族に与えられたものであり、すべての人は現在も将来もこれらの財を使用する固有の権利を有していることをわたしたちに思い起こさせます。聖ヨハネ・パウロ2世は、「神はすべての人を養うために、誰一人排除したり特別扱いしたりすることなく、全世界の人類に地球を与えられた」86と思い起こさせました。結果として、「その恩恵が限られた少数の人々にのみ及ぶような方法でこの賜物を使用することは、神の計画に合致しません」87。今日、わたしたちはこの普遍的な目的が物質的な財だけでなく、非物質的および文化的な財にも適用されることを認識するよう求められています。

  2. もちろん、私有財産への権利は存在し、それは独自の具体的な意味と目的を持っていますが、それは常に財の普遍的目的の原則に従属するものです。ヨハネ・パウロ2世によれば、この従属は社会的行動の黄金律であり、「倫理的・社会的秩序全体の第一の原則」88です。教会の伝統において、所有権は財が共通善によりよく奉仕できるように、それを保護し管理する手段として見なされてきました。「キリスト教の伝統は、私有財産に対する権利を絶対的または不可侵のものとして認めたことは一度もない」89ため、その社会的機能は単なる神学的な意見ではなく、聖書や教父の著作にすでに存在する教会の教理として考えられなければなりません。このため、教皇フランシスコは、連帯がその最も完全な意味で生きられるとき、それは「貧しい人々に属するものを彼らに返すこと」90をも意味すると思い起こさせました。

  3. 今日、すべての人に普遍的に意図された財の中には、特許、アルゴリズム、デジタル・プラットフォーム、技術インフラ、およびデータなどの新しい形態の財産も含めなければなりません。国家の富がますます知識と技術に依存するようになっている状況において、これらの財が、十分な共有やアクセスの形を伴うことなく少数の人々の手に集中したままである時、財の普遍的目的に矛盾する新たな不均衡が生み出されます。そしてそれは、包摂された者と排除された者、デジタル革命に参加できる者と周縁に留まる者との間の格差を広げます。さらに、わたしたちの共通の家への配慮と、貧しい人々および将来の世代に対するわたしたちの責任は、被造物の財と技術が提供する新しい可能性の利用が、環境を尊重し、浪費を避け、新たな形態の搾取を防ぐような方法で規制されることを要求しています。

補完性の原則

  1. 補完性の原則は、尊厳と共通善に関するわたしたちの考察を導いてきたのと同じ、人間に対する理解から生じています。すべての男女が自らの人生に責任を持ち、社会の形成に貢献するよう召されているのであれば、社会制度もまたこの責任を尊重し支援しなければなりません。教会の社会教説は補完性を、個人、家族、地域共同体、および中間組織の役割が、より上位の権威によって取って代わられるべきではないという原則として言及しています。さらに、上位の制度は下位の実体の自由と創造性を認識、保護、および促進し、それらが共通善のために効果的に協力できるように、その貢献を調整しなければなりません。91

  2. レオ13世と近代の社会的な教えの始まりから、教会は個人も家族も国家に吸収されるべきではなく、共通善を害さない限り、可能な限り自由に行動することが許されるべきであると主張してきました。92 聖ヨハネ・パウロ2世はこの視点を取り入れて発展させ、政治共同体は市民社会に奉仕するものであり、国家は共通善を保護し、必要な時には介入しなければならないが、中間組織や社会制度の責任に永続的に取って代わってはならないと指摘しました。93 補完性は国家の不介入を正当化するものではなく、むしろその行動を導くものです。実際、公的な介入は、すべての社会的アクター(行為主体)が抑圧されることなくその使命を果たすことができるようにするためにこそ必要なのです。個人、家族、結社、および中間組織が、取って代わられたり単なる促進者に還元されたりすることなく、社会における自らの使命を果たすことのできる条件を作り出すことは、政治共同体の責任です。94

  3. この原則は、社会生活におけるいかなる形態の温情主義的または福祉的な管理も乗り越え、市民の自発的行動を尊重する国家において共有された責任の文化を促進し、共通善のために絆を築き、エネルギーを結集することのできる市民社会を促進するようわたしたちを励まします。補完性の原則に従い、決定は関係する人々に可能な限り近いレベルで下されます。これにより、共同体生活が育まれ、すでに下された決定を人々に提示することが避けられます。このようにして、人々は意思決定プロセスに参加することができます。家族、結社、地域共同体、ボランティア組織、そしていわゆる「第三セクター」の人々が認識され、支援されるとき、社会生活は人々にとってよりアクセスしやすくなり、サービスは実際のニーズに一層合致し、解決策はより創造的で、一人ひとりの尊厳を尊重するものとなります。95

  4. 補完性の原則は、デジタル革命の文脈において特に適用されます。ここでは、最高レベルにあるのは国家ではなく、むしろ日常生活の条件に対して事実上の権力を行使する主要な経済的および技術的アクターたちです。専門知識、データ、および意思決定権限を独占するこのレベルは、アクセスの条件、可視性の規則、相互作用の形態、さらには経済的機会を定義する企業やプラットフォームを巻き込んでいます。補完性の原則は、そのようなプロセスが不透明で一方的な方法で上から押し付けられるのではなく、透明性、説明責任、および意味のある参加の形態(独立したチェック、アルゴリズムに関する透明性、データへの公平なアクセス、および救済の手段を含む)をもって、共通善に向けられることを要求しています。96

  5. この文脈において、国家や多国籍機関は、地域共同体、中間組織、学校、大学、宗教機関、結社が声を上げ、雇用、サービスへのアクセス、データ管理、デジタル環境など人々の日常生活に影響を与える選択の識別において貢献できるように、公正な規則と効果的な安全措置を確保するよう召されています。経済の流れやデジタル・プラットフォームに関する決定、ならびにデータやアルゴリズムのガバナンスに関しては、少数のアクターがこれらのプロセスを単独で決定することを許してはなりません。そうではなく、グローバル・コミュニティの様々なレベルを尊重し、共通善に対してそれらが共同で責任を負うような協力の形を構築しなければならないのです。97

連帯の原則

  1. 共通善と補完性について考察したうえで、連帯の原則について省察したいと思います。これは、すべての人間が神の似姿として創造され、他者と、特定の民族と、そして被造物とを結びつける関係のネットワークの一部であるという、信仰から生み出された人間のビジョンから現れるものです。聖パウロ6世は、連帯、正義、および愛の義務は、個人や民族を結びつける人間的および超自然的な兄弟関係の絆に根ざしていると観察しました。98 兄弟愛は単なる信者の願望ではなく、共同体の選択と取り組みにおいて具現化されるべき社会的および政治的現実です。したがって連帯とは、一人ひとりの個人の未来がすべての人の未来と結びついていること、すなわち「誰も一人では救われない」99という具体的な認識なのです。かくして、補完性と連帯の間に親密な関連があることは明らかです。補完性が連帯と結びついていない場合、それは単に特定の利益を保護することに終わります。連帯が補完性によって支えられていない場合、それは責任を育まない福祉の一形態へと退化します。100 この相互関係は、真の参加の責任にも関わります。連帯は、各人が個人としても集団としても、情報を得て、他者と関わり、声を上げ、公的な決定と選択に貢献することによって共同体の生活に参加する時――同時に、共通善が共有された意思決定を通じて達成されるように真の責任を引き受ける時――に表現されます。

  2. 多くの分野で、わたしたちはすでに一種の「事実上の連帯」を経験しています。なぜならわたしたちの生活は絡み合っており、デジタルネットワークが世界中の人々や共同体をリアルタイムで結びつけ、グローバルな経済やコミュニケーションが、ある場所での出来事が遠くまで影響を及ぼすことを意味しているからです。しかしながら、この関係のネットワークは、それが意識的な選択となった時にのみ、言葉の最も完全な意味での連帯を構成します。信仰はわたしたちを、この現実を一つの呼びかけとして見るよう招きます。わたしたちは互いに単なる隣人であるだけでなく、互いに委ねられており、それぞれが最善を尽くして、兄弟姉妹の命と傷に対して責任を負うことができるようにされているのです。連帯は、隣人に起こることに無関心でいることをやめ、避けることのできない絆――経済的、文化的、技術的――を、分かち合い、協力、相互の配慮の道へと変容させ、「共同体の観点から考え、行動する」101という理念を受け入れると決意する時にこそ生じるのです。

  3. 教会の社会的な教えは、連帯が原則であると同時に徳でもあることを強調しています。原則として、それは個人、集団、民族間の関係の客観的秩序を表現し、各人の善が他者の善に依存しているという相互依存の認識を示しています。徳として、それは特に最も必要としている人々に注意を払いながら、共通善のために奮闘する「確固たる、そして忍耐強い決意」102を要求します。教皇フランシスコは、連帯とは単なる個人の集まりではなく共同体を創り出す「歴史を刻む方法」103であると指摘しました。このため、連帯は、ささやかで分かち合う生活様式、将来他者に機会を創出するために目先の利益を放棄する能力、そして、習慣や特権――デジタル消費やテクノロジーの使用に関連するものを含め――が他者が尊厳をもって生きることを妨げる時に、それらに異議を唱えようとする意欲を要求するのです。

  4. 人々、共同体、国家間の結びつきがますます緊密になっている世界において、連帯もまたグローバルな次元を帯びています。ベネディクト16世は、開発、正義、および将来の世代に対する責任の間の関連性を強く強調し、真の開発には連帯と世代間の正義104、ならびにわたしたちを自然環境と結びつける絆への意識が必要であると述べました。今日、この責任はデジタルおよび情報インフラにも及んでいます。自然環境と同様に、「デジタル・エコシステム」も、保護されることも搾取されることも、共有されることも独占されることもあり得ます。連帯は、データ、アルゴリズム、プラットフォーム、および人工知能に関する決定が、少数の人々への目先の利益だけでなく、すべての民族や将来の世代への影響をも考慮に入れることを要求しています。

社会正義の原則

  1. キリスト教共同体にとって、社会正義はイエスに従い、福音に忠実であり続けるための具体的な方法です。新約聖書において、イエスは「貧しい人々に福音」を告げ知らせ(ルカ4章18節)、ご自身を身分の低い人、病気の人、投獄されている人、見知らぬ人と同一視されます(マタイ25章31-46節参照)。イエスはこうして、正義は兄弟愛から生まれ、兄弟愛において満たされることをわたしたちに教えておられます。なぜなら、わたしたちの中で最も小さくされた人々にアプローチし、関係を持つ方法は、具体的な言葉で言えば、神や兄弟姉妹との関係の尺度となるからです。しかし、正義は個人の行動だけでなく、社会の構造が考案され組織される方法にも関わります。この点に関して、第二バチカン公会議は、すべての制度は人間とその尊厳に奉仕するよう召されていることをわたしたちに思い起こさせます。105 したがって、社会正義は、社会的、経済的、政治的秩序が、誰も置き去りにすることなく――特に最も弱い立場にある人々が――真に尊厳ある生活を送ることを可能にする能力によって特徴づけられるのです。

  2. 最近の教導権は、社会正義はわたしたちの中で最も小さくされた人々から始まると主張しています。聖ヨハネ・パウロ2世は、個人的および社会的な選択を導かなければならない貧しい人々への優先的選択106について語り、一方で教皇フランシスコは、絶えず新たな形態の排除を生み出す「使い捨て文化」107を非難しました。この視点から、社会正義はわたしたちに、最も弱い立場にある人々――貧しい人々、移住者、難民、国内避難民、暴力の犠牲者、そして都市や実存的な周縁部に住む人々――から始めて、個人と共同体を見つめることを要求します。

  3. 「社会正義」という理念は、不公正が個人の誤った選択のみから生じるのではなく、ほとんど自動的に不平等を生み出す構造、メカニズム、経済的および文化的システムからも生じることをわたしたちが認識する助けとなります。聖ヨハネ・パウロ2世は、神の御心に逆らい、個人的および社会的な回心への取り組みを要求する罪の構造108について、この脈絡で語りました。この視点において、正義は単なる資源のより公平な分配や現在の不公正の是正にとどまらず、修復的な次元をも帯びます。正義は、戦争、植民地主義、人種やジェンダーによる差別、全民族に対する暴力、そして搾取などの不公正によって引き起こされた傷を考慮に入れながら、壊れた絆を修復し、排除された人々を再統合することを目指します。これには、無視されてきた人々に尊厳と声を取り戻すこと、集合的な記憶を癒やすプロセスを育むこと、差別的な法律や慣行に反対すること、そして過去に受けた不当な扱いの結果を今も背負っている人々に具体的な支援を提供することが含まれるかもしれません。

  4. 現代において、社会正義はデジタル技術によって形成された環境にも取り組まなければなりません。グローバル・ネットワーク、プラットフォーム、および人工知能システムの普及は、わたしたちが情報を得て、コミュニケーションを取り、サービスにアクセスする方法を変えつつあります。正義は、わたしたちが新たな形態の排除や自由の剥奪の出現を防ぐことを要求します。例えば、基本的な技術へのアクセスを妨げられたり拒否されたりする個人や民族、侵略的な監視にさらされる共同体、偏見や差別を永続させる不透明なアルゴリズムによって不利益を被る社会集団などです。デジタル時代において、公正な社会秩序は、すべての人に機会への平等なアクセスを保証し、社会の最も若く弱いメンバーを保護し、ヘイトや偽情報と闘い、データや技術の利用を公的な監視の下に置くことによって、指針となる原則が利益のみならず、すべての人の尊厳と万人の共通善となるようにします。

  5. 今日の社会正義のリトマス試験紙となるのは、移住者、難民、そして貧困、暴力、気候変動、環境災害により移動を余儀なくされた人々に対する扱いです。社会が彼らをどのように扱うかは、その正義感が恐怖に突き動かされているのか、それとも兄弟愛の精神に突き動かされているのかを明らかにします。教皇フランシスコは、移住者を単なる管理されるべき問題としてではなく、旅する神の民の生きた姿として見るようわたしたちに促しました。109 彼らは尊厳、資源、夢を持つ人々であり、敬意をもって扱われ、彼らを歓迎する社会の積極的なメンバーとなるよう求める権利を持っています。この分野における社会正義は、少なくとも二つの相互補完的な取り組みを伴います。一方では、これは、安全で合法的なルート、彼らを受け入れるための尊厳ある条件、および統合への真の道筋を確保することによって、去ることを余儀なくされた人々の正当な希望を保護することを意味します。他方では、それは、経済的非道や気候危機に関連するものを含め、人々に移住を強いる根本原因に対処することによって、平和と安全の内に自国にとどまる権利を促進することを意味します。これらの権利が尊重されるとき、移住は諸民族間に出会いと相互の豊かさをもたらす機会となり得るのです。

全人的開発

  1. 回勅『ポプロールム・プログレシオ』において、パウロ6世は、開発が「完全な」、すなわち「各人の、また全人間の開発を促進する」110ことができるという意味においてのみ、真正なものであると断言しました。その後の数十年間、教会の社会教説はこの表現を繰り返し、熟考して、尊厳、共通善、財の普遍的目的、補完性、連帯、そして社会正義といった崇高な原則が実生活で実践される具体的な方法を示してきました。「全人的(総合的)開発」とは、個人と諸民族の成長が実存のすべての次元を包含し、後続の世代にも未来を開くプロセスを意味します。

  2. 個人にとっても国家にとっても、開発は義務であると同時に権利でもあります。すべての人間と民族が、依存状態に置かれたり、必要な財へのアクセスから排除されたりすることなく、自らの尊厳にかなって花開くことができるようにするためには、最低限の条件が必要です。開発は、富の蓄積ではなく人間を中心に置き、個人だけでなく諸民族にも関わる時、真に人間的なものとなります。正義は、社会の権利と諸民族の権利の認識を要求し、将来の世代に対する責任を含んでいます。もし開発が、他者にコストや負担を転嫁しながら一部の人々の消費を増加させたり、特定の地域全体を従属的な役割に追いやり、その十分な潜在能力の実現を妨げたりするならば、それは真に人間的とは言えません。111 開発は、経済領域に限定されることなく、わたしたちの共通の家、諸民族の多様性、そしてその生活様式を尊重しつつ、精神的、文化的、道徳的、関係的な側面において生活の質を向上させる時、全人的なものとなります。112

  3. 今日、全人的開発の概念は、総合的エコロジーの評価のための基準となっており、これは教会の社会教説の不可欠な次元となっています。まことに、開発の質は、人々に対する正義とわたしたちの共通の家の保護を統合する能力によって、そして尊厳ある生活条件、必要な財へのアクセス、公正な社会関係、被造物の保護、および将来の世代への配慮を促進する能力によって測られます。したがって、生態系を劣化させたり、最も不利な状況にある共同体にコストを転嫁したり、わたしたちに続く人々の生活条件を危うくしたりすることによって一部の人の幸福を増大させるものは、真の進歩ではありません。

  4. この光に照らしてみれば、全人的開発とは、デジタル革命がもたらした変化を含む、わたしたちの時代の変化を解釈できる枠組みです。人工知能を含む技術革新は中立ではありません。なぜなら、それらは参加と正義を促進することもあれば、不平等、統制、排除を悪化させることもあるからです。このため、それらは一つの決定的な問いを投げかけることによって評価されなければなりません。すなわち、それらはわたしたちの共通の家と将来の世代を尊重しながら、個人と諸民族がより人間らしく、より兄弟的になるのを真に助けているのか、ということです。社会教説の原則が、続く章で取り上げる問題に関する識別のための具体的な基準となるのは、まさにここにおいてなのです。

教会に対する究明

  1. 結論として、わたしにとって特に身近なある点に触れたいと思います。社会教説は単に社会に向けられたメッセージであるだけでなく、教会に対する良心の究明でもあります。教会は交わりの家であり学校であり、この章で概説された原則が特に自らの構造内で適用されることを常に保証するよう召されています。教会の文脈において、共通善は御国に奉仕する宣教のためのシノドス的アプローチの形をとります。まことに、教会は「シノダリティと宣教の共同体的および歴史的主体」113なのです。これは、意思決定がどのように行われ、責任がどのように行使されるかに注意を払うことを要求します。シノドスの最終文書は、透明性、説明責任、そして評価の文化を、宣教的な変革のための重要な実践として特定しています。114

  2. これを念頭に置くと、補完性はガバナンスと司牧生活のための指導原則となります。それは、信徒と教会の仲介組織が責任を果たす際にそれらを認識し支援すること、カリスマと技能を評価すること、そして福音の自由を窒息させるいかなる形態の温情主義も避けることを含みます。実践的な言葉で言えば、意思決定プロセスへの受洗者の参加と、宣教における彼らの共有された責任は、単なる名目上ではなく、真の参加型機関を通じて達成されるのです。115

  3. キリスト教共同体にとって、連帯はその源泉をキリストの神秘に見いだし、聖体によって養われます。連帯は、信仰と秘跡における交わりから生じます。洗礼と堅信はわたしたちをキリストにおいて一つに結びつけ、わたしたちが一つの体と一つの霊、一つの心と一つの魂となることができるようにします(エフェソ4章4節、使徒言行録4章32節参照)。一致の秘跡である聖体は、わたしたちがキリストの体に属していることを養い、分かち合う方法をわたしたちに教えます。教会内に存在する多様な感性や、各人を突き動かす強い信念は、一致が受け取られた賜物であり果たすべき責任であるという確信に錨を下ろしている限りにおいて、豊かさの源泉となります。

  4. 教会において正義を生きるとは、不平等、透明性の欠如、および権力の濫用を引き起こす歪みから、教会の関係と構造を浄化することを意味します。この点において、霊的、経済的、制度的、性的、権力に基づく虐待、さらには良心の濫用の被害者の声に耳を傾けることは、正義への道のりの不可欠な部分です。それには、なされた害を認め、公正な賠償を行い、それが二度と起こらないよう予防措置を講じることが含まれます。すべての権力は交わりと宣教に奉仕するものです。すべての権威は神の民に奉仕するものです。この奉仕の務めは、秘跡の中で祝われ、生きられるわたしたちの信仰や、シノドス的なスタイルの採用を通じてだけでなく、財の具体的な分かち合いにおいても表現されます。初代教会の模範に従い、わたしたちの中に貧しい人が一人もいないようにするため(使徒言行録4章34節参照)、そしてその管理が最も貧しい人々に福音を告げ知らせる使命を支援するために、教会の資源は共有される必要があります。奉仕職の責任の行使に関する定期的な評価は、個人に対する裁きとしてではなく、宣教に向けられた学習と修正のためのツールとして奨励されるべきです。116 わたしたちが聖霊の働きに開かれている限りにおいてのみ、社会教説のこれらの原則は教会の生活の中で受肉するものとなるでしょう。このようにして、教会は社会に対して、共有された責任と兄弟愛をもって共通善をともに求めることは、ユートピアではなく現実の可能性であるという、信頼できる証しを立てることができるようになるのです。117

第三章: テクノロジーと支配。AIの約束に照らした人間の偉大さ

  1. 社会教説に光を当てる諸原則を思い起こした上で、わたしはここで、今日のわたしたちの生活様式を深く形作っている特定の課題に焦点を当てたいと思います。これらの考察に伴う聖書のイメージは、建築プロジェクトのイメージです。一方にはバベルの塔があり、そこでは共同の努力が支配し、最終的には非人間化する計画に従っています(創世記11章1-9節参照)。もう一方にはエルサレムの廃墟があり、それはネヘミヤの指揮の下、共有された責任のプロジェクトとして少しずつ再建されていきます(ネヘミヤ記2〜6章参照)。わたしたちは、わたしたちの時代の巨大な「建設現場」について考察し、問うよう招かれています。わたしたちは何を建設しているのか。技術の発展が言語、関係、制度、そして権力の形態を急速に変容させる中、わたしたち信者は、賜物としてわたしたちに与えられた人類の偉大さを守り、価値あるものとするために、どのプロジェクトに、どのような方法で取り組むかを選ばなければならず、また選ぶことができるのです。人工知能やその他の新興技術はすでにわたしたちの日常生活の一部となっているため、これはわたしたちの未来のためだけでなく、現在のための選択でもあります。

  2. 福音の光に照らして社会関係を生きる具体的な方法は、一度確立されてそれで終わりというものではなく、代々キリスト教共同体に委ねられた課題であり続けるとわたしは確信しています。聖霊の導きの下、教会は自らが神の言葉に照らされることを許し、時代のしるしを読み解き、諸民族や国家の間の関係が神の国の要求により一層適合するための新しい方法を創造的に探求します。118 この理由から、わたしは教会のすべてのメンバーに対し、現在の課題を恐れることなく、互いに耳を傾け合い、より人間的で兄弟愛に満ちた社会を築くという責任をしっかりと受け止めるよう奨励します。

テクノクラシーのパラダイムとデジタルの力

  1. 回勅『ラウダート・シ』の中で、教皇フランシスコは、グローバル化した世界において増大するテクノクラシー(技術至上主義)のパラダイム119の支配を非難しました。それは、効率性、管理、利益の論理のみに、個人的、社会的、経済的決定を形作らせる傾向です。これは、テクノロジーが単なる道具ではないことを明確にしています。それがすべてを判断する基準となる時、それは何が重要で何が切り捨てられるかを指示し始め、被造物を搾取の対象に、人間をさらなる効率の追求へと駆り立てるシステムの中の単なる歯車におとしめてしまいます。

  2. このパラダイムは近年、人工知能、認知科学、ナノテクノロジー、ロボット工学、バイオテクノロジーの拡大などによって急速に広がっています。これらの革新はそれ自体として、全人的開発や共通の家への配慮に大きく貢献することができます。しかし、まさにその強力な力ゆえに、それらはテクノクラシーのパラダイムの拡大を加速させる可能性もあり、それゆえに新たな精神的、倫理的、政治的枠組みを必要としています。力の増大が必ずしも良い結果を意味するわけではありません。この点において、ロマーノ・グァルディーニの言葉は今日でも妥当性を持っています。「現代人は力を正しく使うための訓練を受けていない」120。

  3. 人類が自らの成果の犠牲者となる危険性は、すでに聖パウロ6世によって明確に認識されていました。彼は、「最も驚異的な科学の進歩、最も驚くべき技術的偉業、そして最も目覚ましい経済成長も、真の道徳的および社会的進歩を伴わなければ、長期的には人間を滅ぼすことになるだろう」121と警告しました。この理由から、技術の進歩は――それ自体は価値あるものですが――それを導く人間学的なビジョンと、それが追求する目的に対する慎重な識別を必要とします。もし技術の発展がそれに見合う倫理的および社会的進歩なしに進むなら、その結果は、人間性の成長なしに手段のみが増大する、すなわち「より多くあること(being more)」なしに「より多く持つこと(having more)」となるかもしれません。そのようなシナリオでは、個人が主にその生み出す成果に応じて評価される危険があります。122

  4. ここで、わたしが先にも述べたもう一つの重要な側面を認識しなければなりません。デジタルの文脈の多くの場合、プラットフォーム、インフラストラクチャー、データ、そして計算能力に対する支配権は、国家ではなく、主要な経済的および技術的アクターの手中にあります。これらの実体は事実上、アクセスの条件を設定し、可視性のルールを決定し、参加の可能性そのものを形作っています。そのような権力が少数の人々の手に集中すると、それは不透明になり、公的な監視を逃れる傾向があり、新たな依存、排除、操作、不平等を生み出す歪んだ形態の発展のリスクを高めます。

  5. デジタル世界におけるこの権力の集中に直面した時、この新たな状況における判断と識別の基準となるのは、社会教説の崇高な原則、すなわち、人間の不可譲の尊厳、共通善、財の普遍的目的、補完性、連帯、そして社会正義です。これらの原則は、デジタルインフラとアルゴリズムの力が真に参加と責任を育み、弱い立場にある人々を保護し、機会への公正なアクセスを確保し、すべての人の善に向けられ続けているかどうかを評価するよう、わたしたちに要求しています。これを踏まえ、わたしたちは人工知能とは何か、それが開く可能性、そしてそれが伴うリスクについて、より詳しく検討することができます。

人工知能

  1. 教会の文脈も含め、権威ある貢献がすでに存在しているため、ここで人工知能に関する包括的な扱いを提供したり、広範な関連文献の概要を示したりすることはわたしの意図するところではありません。123 わたしは、人間の尊厳の優位性を守る道徳的および社会的識別のためのいくつかの不可欠な要素を思い起こすことにとどめます。それは、技術革新を導き、その用途と限界を責任をもって決定するのは、常にその良心と自由を備えた人間の知性であることを確実にするためです。

  2. この議論に先立ち、二つの考察を述べておくのが適切でしょう。第一に、これらのシステムが開発されている驚異的なペースを考慮すると、AIに関するいかなる声明もすぐに時代遅れになるリスクがあります。第二に、AIを設計している人々を含め、わたしたち全員がAIの実際の機能について限られた理解しか持っていません。実際、現在のAIシステムは「構築された」というよりは「育成された」ものであり、開発者はすべての詳細を直接設計するのではなく、知性が「成長する」枠組みを作成します。結果として、これらのシステムの内部表現や計算プロセスなどの根本的な科学的側面は、現在のところ未知のままです。したがって、ここには二重の取り組みの緊急の必要性が生じています。一方では科学的研究の深化であり、他方では道徳的および精神的識別の行使です。

  3. AIに関する単一の包括的な定義を提供することは不可能です。しかしながら、この種の「知能(インテリジェンス)」を人間の知能と同一視するという誤解を避けなければならないことは断言できます。これらのシステムは、人間の知能の特定の機能を単に模倣しているにすぎません。そうすることで、それらはしばしば速度と計算能力において人間の知能を凌駕し、多くの分野で具体的な利益をもたらします。しかし、この力は依然として完全にデータ処理に結びついています。いわゆる人工知能は経験を経ることもなく、身体も持たず、喜びや苦しみを感じることもなく、関係を通じて成熟することも、愛、仕事、友情、責任が何を意味するのかを内側から知ることもありません。また、善と悪を判断し、状況の究極の意味を把握し、あるいは結果に対する責任を負うこともないため、道徳的良心も持っていません。それらは言語、行動、分析スキルを模倣したり、共感や理解をシミュレートしたりすることはあるかもしれませんが、人間が知恵において成長するための感情的、関係的、精神的な視点を欠いているため、自らが生み出したものを理解することはありません。たとえこれらのツールが「学習」できると説明されたとしても、その方法は人間のそれとは異なります。それは、人生によって形作られることを許し、選択、過ち、許し、そして忠実さを通じて時とともに成長する人々の経験ではありません。むしろ、それはデータとフィードバックに基づく統計的適応の一形態であり、非常に効果的ではありますが、内面的な成長を意味するものではありません。

警戒を要する有益な道具

  1. これまで述べられてきたことに照らし合わせれば、なぜAIが価値あるツールでありながら、同時に慎重かつ警戒を要するアプローチを求めるのかをよりよく理解できるでしょう。近年、AIの私的利用は著しく拡大し、それが提供する機会と急速な普及に伴うリスクの双方について、関心と考察が高まっています。個人的な使用においては、特に三つの側面が慎重な検討に値します。すなわち、結果が得られる容易さ、客観性の印象、そして人間のコミュニケーションのシミュレーションです。情報、複雑な分析、メディア・コンテンツ、実用的な支援にアクセスできる速度と単純さは、間違いなく生活を容易にします。しかし、それらはまた、過度な依存や出来合いの答えの探求を助長し、個人の創造性や判断力を弱める可能性もあります。これらのシステムが提供する回答や提案の一見した客観性は、それらがすべての長所と限界を持った上で、それを設計し訓練した人々の文化的前提を反映しているという事実を見過ごさせる可能性があります。助言の言葉、共感、友情、さらには愛といった、肯定的な人間のコミュニケーションの人工的な模倣は、魅力的であり、時には真に有益であることもあります。しかし、洞察力に欠けるユーザーにとっては、実際の個人的な主体との関係という幻想を生み出し、誤解を招く可能性もあります。言葉がシミュレートされるとき、それは真の関係を築くのではなく、その外見だけを構築するのです。ケアやサポートの人工的な模倣は、本当の関係や感情の絆が欠如している文脈に入り込む時、特に危険なものとなり得ます。ここでの危険は、人が別の人間とコミュニケーションをとっていると信じ込むことにあるのではなく、むしろ真の人間的なつながりを形成しようという欲求そのものを次第に失っていくかもしれないということにあるのです。

  2. 社会におけるAIの利用に視野を広げると、それが現在、コミュニケーション、管理、制御など、多くの分野および複数のレベルで意思決定プロセスに組み込まれていることが分かります。効率性の向上と特定のサービスを改善する可能性は明らかですが、それらを急速かつ無批判に採用することは、環境への影響を見過ごす傾向を含む、様々なリスクにわたしたちをさらすことになります。現在のAIシステムは膨大な量のエネルギーと水を必要とし、二酸化炭素排出量に重大な影響を与え、天然資源に多大な要求を課しています。特に大規模言語モデルの場合など、システムの複雑さが増すにつれて、計算能力とストレージ容量の必要性も高まり、それには機械、ケーブル、データセンター、およびエネルギー集約型インフラの広範なネットワークが必要となります。この理由から、環境への影響を減らし、わたしたちの共通の家を保護する助けとなる、より持続可能な技術的解決策を開発することが不可欠です。124

責任、透明性、そしてAIのガバナンス

  1. AIの使用は決して純粋な技術的な問題ではありません。それが人々の生活に影響を与えるプロセスに導入される時、それは権利、機会、地位、および自由に関わってきます。雇用、信用、公共サービスへのアクセス、さらには個人の評判に関する重要かつ繊細な決定が、「思いやり、憐れみ、許し、そして何よりも、人々は変わることができるという希望」125を知らない自動化システムに完全に委ねられる危険があり、したがって新たな形態の排除を引き起こす可能性があります。情報の操作やプライバシーの侵害など、明らかに有害な用途も存在します。しかし、より巧妙な危険もあります。AIシステムが中立的かつ客観的であるかのように自らを提示する時、それらは設計者や開発者のステレオタイプやイデオロギー的偏見を反映し、強化してしまう結果となるからです。

  2. 実際、誰が価値があるか無いかを選択する権力をアルゴリズムに委ね、その判断に対する責任を誰も負わないことは、人間の可能性の境界を再定義する任務を放棄することに他なりません。このプロセスにおいて、排除された人々への共感(それは結局のところシミュレート可能なものですが)だけでなく、政治的責任もまた失われます。弱い立場にある人々の排除は、中立性と客観性のベールに包まれ、それに対して異議を唱えることは困難になります。このようにして、不公正は気づかれないまま進行し、思いやり、憐れみ、許しといったものが――単なる外見としてではなく、実際の政治的行動として理解された上で――次第に視野から消え去っていくのです。

  3. このことから、単純でありながら説得力のある帰結が導き出されます。すなわち、AIを道徳的に中立なものと見なすことはできないということです。現実において、すべての技術的ツールは、それが何を測定し、無視し、最適化するか、そして人々や状況をどのように分類するかを通じて、選択と優先順位を体現しています。もしシステムが、特定の生命を価値が低いものとして扱ったり、控訴の可能性なしに排除したりするような方法で設計または使用されているならば、それはもはや単なる「うまく使われるべき」ツールではありません。なぜなら、それはすでに人間の不可譲の尊厳に矛盾する基準を導入しているからです。この理由から、倫理的識別は、わたしたちがシステムを良い目的または悪い目的のために使用しているかを問うことに限定されてはならず、そのシステムがどのように設計され、どのような人間と社会のビジョンがそれを導くデータとモデルに組み込まれているのかをも検証しなければなりません。126

  4. AIが人間の尊厳を尊重し、真に共通善に奉仕するためには、これらのシステムを設計・開発する人々から、それらを使用し、具体的な決定をそれらに依存する人々に至るまで、すべての段階において責任が明確に定義されていなければなりません。しかし多くの場合、結果に至る内部プロセスは不透明なままであり、責任の所在を明らかにし、誤りを正すことを困難にしています。ここでアカウンタビリティ(説明責任)が不可欠となります。すなわち、誰が決定の「説明」をし、それを正当化し、監視し、必要な場合には異議を唱え、引き起こされたいかなる害をも救済しなければならないのかを特定できることです。127

  5. AIの導入において、慎重さ、厳格な評価、そして時にはより緩やかなペースを求めることは、進歩に反対することを意味するのではなく、むしろ全人類の家族に対する責任ある配慮の実践です。技術の成長の速さと、意識、規範、保護措置、そしてその影響を統治できる制度の発展の遅さとの間には頻繁に不均衡が見られるため、この必要性はますます緊急性を帯びています。抽象的な倫理を喚起するだけでは十分ではありません。堅牢な法的枠組み、独立した監視、情報に基づいたユーザー、そして責任を放棄しない政治システムが必要です。そうでなければ、変化はテクノクラシーの思考にのみ支配され、必要不可欠で不可避なものとして提示され、最終的にはデータ、インフラ、および計算能力を支配する人々によって形成された規則が押し付けられることになるでしょう。

  6. わたしたちは、機械の道徳化――いわゆるAIの人間的価値との「アライメント(整合性)」――を求めるだけでは満足できません。関連する倫理的枠組みについて公に議論し、それを社会正義の共有された基準に従わせるという、さらなる条件を主張する勇気を持たなければなりません。さもなければ、AIを支配する人々が彼ら自身の道徳的ビジョンを押し付け、それがこれらのシステムの目に見えないインフラストラクチャーとなるでしょう。もしその道徳性がごく少数の人々によって決定されるのであれば、より道徳的なAIであっても十分ではありません。必要とされているのは、すべてが加速している時に速度を落とし、共同体が依然として参加し、疑問を投げかけることができる機会を保護できる、より積極的な政治的関与なのです。

  7. 実際、すべての主要な技術的転換がそうであったように、AIは、経済的資源、専門知識、およびデータへのアクセスをすでに持っている人々の力を増幅させる傾向があります。共通善と財の普遍的目的の観点から見ると、これは深刻な懸念をもたらします。なぜなら、少数ではあるが非常に影響力のあるグループが、情報や消費パターンを形成し、民主的なプロセスに影響を与え、経済の力学を自らの有利に導き、諸民族間の社会正義と連帯を損なう可能性があるからです。この理由から、特にAIが公共の財や基本的人権に触れる場合には、参加と補完性に基づく明確な基準と効果的な監視によってその使用が導かれることが不可欠です。共同体や中間組織は、他所で下された決定の受動的な受け手に貶められてはならず、識別と監視に貢献できなければなりません。さらに、データの所有権を民間の手のみに委ねることはできず、適切に規制されなければなりません。データは多くの貢献者の産物であり、売り払われたり一部の人々に委ねられたりすべきではありません。聖ヨハネ・パウロ2世がすでに集団的財産に関して示唆したように128、参加の精神をもって、共通または共有の財産としてデータを管理するために創造的に考えることが必要です。

  8. 社会教説の原則は、この新たな現実を理解するための枠組みを提供します。データ、計算資源、および規制の影響力が少数の手にとどまっている世界において、共通善について語ることは、この新しい形態の認識論的、経済的、および政治的非対称性を露呈させ、AIの新たな独占を名指しすることを意味します。財の普遍的目的について語ることは、技術とそれを使用するために必要な教育の双方への普遍的なアクセスを確実にする方法を見いだすことを意味します。補完性について語ることは、基準が他所で設定された後で、単なる監視の役割に追いやられるのではなく、選択を行い、修正を加える共同体の能力を保護することを求めます。連帯について語ることは、アルゴリズムのシステムを支えている、目に見えない、しばしば搾取されている労働者を認識することをわたしたちに義務付けます。正義について語ることは、誰が実際にこれらのモデルを訓練することができ、誰が単にそれに従属するだけなのかを決定するグローバルな権力の分配に疑問を投げかけることを要求します。同様に、それは社会正義が技術が導入された後にのみ保護されるべき目標ではなく、その設計の初期段階からそれを形作らなければならない条件であることを認めることを意味します。

  9. 最後に、わたしにとって身近な「武装解除する(disarm)」という表現を用いたいと思います。AIを武装解除するとは、今日、軍事的な文脈に限定されず、経済的および認知的な現象でもある「武装した」競争の精神からAIを解放することを意味します。これは、地政学的または商業的な優位性を確保したいという欲望に駆り立てられた、より強力なアルゴリズムとより大規模なデータセットをめぐる競争を伴います。武装解除するとは、技術的な力が自動的に統治する権利を与えるという思い込みを信用しないことを意味します。武装解除するとは、技術を拒絶することではなく、それが人間を支配するのを防ぐことです。それは技術を独占的な支配から解放し、議論と討論に開かれたものにし、それゆえに技術を人間に優しいものにし、人類の文化と生活様式の多様性に還元することを意味します。今日のわたしたちの課題は、倫理的または技術的なものだけではありません。それは最も深い意味でエコロジカルなものです。なぜなら、それはわたしたちの共通の家の新たな次元に関わるからです。AIはすでにわたしたちが浸っている環境であり、わたしたちが関わらなければならない力でもあります。この理由から、単にそれを規制するだけでは不十分です。それは武装解除され、歓迎されるべきものであり、アクセス可能なものでなければならないのです。

  10. わたしは、人工知能を開発する人々に特別な呼びかけをしたいと思います。ある意味において、技術革新は神の創造の業への人間の参加を表すことができます。したがって、開発者は特別な倫理的および精神的責任を負っています。なぜなら、すべての設計の選択は人間性のビジョンを反映しているからです。芸術作品や文学作品の創造者が、それが伝える価値観を考慮しなければならないように、開発者もまた、そのプロジェクトに価値観を真摯に組み込むよう求められています。透明性を持ち、影響を受ける共同体に対する責任を果たし、育成されているものが真の善であることを確実にするよう慎重な注意を払わなければなりません。

失われてはならないもの

  1. AIの責任とガバナンスの問題を考察した上で、わたしたちは今、「人間性を守るとはどういう意味か」という中心的な問いに戻らなければなりません。リスクは特定の技術の誤用にとどまりません。さらに深刻なことに、わたしたちが浸り、デジタル革命とAIによって増幅されている広範なテクノクラシーのパラダイムは、反人間的なビジョンを常態化させる恐れがあります。そのビジョンにおいては、人生の充満は、より多く持つこと、弱さを減らすこと、不確実性を排除すること、そして完全なコントロールを行使することと同一視されています。効率性が価値の究極の基準となる時、人間は、関係や交わりへと召された人格としてではなく、最適化されるべきプロジェクトとして自らを見る誘惑に駆られます。

  2. 実際、人間の存在のいかなる単一の次元をも絶対的なものに引き上げることは、常に過ちです。まことに、無秩序は不足からのみ生じるわけではありません。無制限の成長でさえ、貧困をもたらす可能性があります。生態系においては、一つの種が他の種を犠牲にして拡大する時にバランスが崩れます。人間の生活においても、ある一つの能力がすべての基準であると主張する時に同様のことが起こります。したがって、知能が絶対化されると、感情、意志、献身、関係性といった生活の他の不可欠な次元を覆い隠してしまいます。同様に、技術的な力がバランスを欠いたまま放置されると、それはわたしたちをより有能にするのではなく、わたしたちをより孤立させ、支配され排除されやすくなります。この重要な指摘は、知性に反対するものではありませんが、知能が自己言及的になる時、生命と人間に奉仕するというその真の目的が失われるということを思い出させるものです。

  3. 文明の質は、その手段の力によって測られるのではなく、それが提供できるケア、そして他者を単なる機能としてではなく、顔として認識する能力によって測られます。互いを気遣う能力は、わたしたちの人間性の根本的な次元であり、生きた経験を通じて学び、習得されるものです。子供に物語を読み聞かせること、高齢者に付き添うこと、家を歓迎の場所となるように整えることなどは、しばしば家族生活に根ざしたシンプルな行動です。これらは、社会レベルでのケアの価値を教え、他者を関心を向けるに値する人格として認識するようわたしたちを訓練します。テクノロジーもまた、人間の自由や判断を損なうことなく、物事を予測し整理するのを助けるツールを提供することによって、例えば、人々の間のこの相互のケアを支援することができます。結局のところ、人間は関係の主体であり、自分自身の決定に対する責任を負っているのです。

底流にある物語:トランスヒューマニズムとポストヒューマニズム

  1. 進行中のデジタル革命に伴う文化的前提を明らかにする試みとして、進歩を人間の条件の超越と解釈する特定の思想潮流に注意を向けたいと思います。これらはしばしば「トランスヒューマニズム」と「ポストヒューマニズム」というレッテルでひとくくりにされます。これらの視点は、一部の技術的権力の中心地に存在するイデオロギー的背景を形成しており、特にメディアやソーシャルネットワークにおいて、単純化された形で集合的な想像力を占めています。これらは、「拡張された人間」や「人間と機械のハイブリッド」という未来的なビジョンを通じて、新技術に対する熱狂を育む傾向があります。

  2. トランスヒューマニズムとポストヒューマニズムは、さまざまな潮流や感性を包含しているため、それらを単一の明確な方法で定義することは困難です。それらは、技術の中心的役割と人間の条件の限界を超越したいという願望という共通の前提の「海」でつながった、異なる概念的な「島」の群島に例えることができます。一般的に、トランスヒューマニズムは、パフォーマンスと能力の向上を目的として、生物医学、身体工学、デバイス、アルゴリズムなどの技術を通じた人間の強化を構想しています。ポストヒューマニズム、特にそのより急進的な形態は、さらに踏み込んで人間中心主義に異議を唱え、人間、機械、環境のハイブリッド化を構想し、人類が新たな進化の段階において自らを超える境界さえも予期しています。このようなアイデアが主に推測の域を出ない場合であっても、それらは集合的な想像力を変化させ、それによって社会的、経済的、政治的選択に影響を与えることで関連性を獲得します。129

  3. 教会の社会教説の観点から見ると、重要な問題は技術の使用そのものではなく、その根底にあるビジョンです。もし人間が完璧にされるべき、あるいは超えられるべきものとして扱われるなら、ある命は有用性が低い、望ましくない、あるいは価値が低いということを受け入れやすくなります。進歩という名の下に、「必要な犠牲」が正当化され始め、種の最適化と称するものの追求において、最も弱い立場にある人々に負担が強いられるかもしれません。この点に関して、先に述べた聖パウロ6世の警告は大きな先見の明を持っています。実際、科学的および技術的な進歩は、道徳的および社会的進歩から切り離されると、最終的には人間性に刃向かうことになります。130 この理由から、明確な区別がなされなければなりません。技術を人間中心の関係的ビジョンの中に統合することと、人間の限界を過小評価し、純粋に技術的な形態の「救済」を約束する見解に導かれることとは、全く別のことなのです。

限界、心、そして人間の偉大さ

  1. 今日、わたしたちの生命との関係は危機に瀕しているようです。「限界」として現れるすべてのもの――無能力、病気、老い、苦しみ、脆弱さ――は、わたしたちの人間性が成熟し、関係性へと開かれる現実としてではなく、主に正されるべき欠陥として見られる傾向があります。しかし、わたしたちは人間が限界にもかかわらず開花するのではなく、しばしば限界を通じて開花するということを忘れてはなりません。信仰の光は、わたしたちがこの世の事物の「偶発性」と呼ぶものを認識する助けとなる、現実に対する視点を提供します。人間の生を特徴づける苦しみを軽減しようと努めることは正しいことですが、それと同時に、わたしたちの根本的な有限性を認めることも賢明なことです。「宗教的経験、とりわけキリスト教の信仰は、人間の偉大さと限界の間のこの両義性を過度に単純化することなく生き、それをわたしたちの神との根源的かつ根本的な関係の光に照らして解釈することを提案している」131ということを知っているからです。

  2. わたしたちの限界の中においてこそ、次のようなものがその場を見いだします。すなわち、同情、そして他者のニーズへの心からの関心。暗闇や失敗の只中においてさえも現れうる寛大さ。霊的な経験と神への礼拝。わたしたちはこれを、わたしたちの限界が明白になる多くの瞬間に目にします。すなわち、拒絶に直面した時、愛する人の病気や喪失に苦しむ時、自分自身の弱さや失敗に遭遇した時です。不思議なことに、わたしたちが新たな知恵を発見し、他者の寄り添いを具体的に経験し、主の現存に出会うことができるのは、まさにそのような瞬間においてなのです。

  3. たとえ限界が内面的な苦しみとして経験されたとしても、人間の知恵はそれを否定したり抑圧したりするのではなく、統合することを教えてくれます。苦しみを完全に取り除くことは、最終的には愛と欲望をも消し去ることを意味します。愛し、望む者は、試練と苦しみを避けて通ることはできません。そして年月を経て、わたしたちは傷跡のように痕跡を残す教訓、すなわち自由と失敗、夢と失望によって形作られた旅の記憶を心に刻みます。これらすべての要素の相互作用のおかげでのみ、魂の驚異がわたしたちの内に起こり、わたしたちの人間性の豊かさを感じることができるのです。132 すべての限界の超越を想定する名の下に、悲劇的でもあり素晴らしくもあるこの冒険を放棄することは、多くのことを意味するかもしれませんが、それはもはや人間的なことではありません。

  4. 被造物としてのわたしたちの限界の道徳的な堕落――すなわち、人間の心を明らかに揺るがす悪――は、社会と生活を破壊し、時には非人間性の極限に達することもあります。しかし、わたしたちの限界のこうした痛ましい表現であっても、善への入り口を残しています。人々が自らを非人間化し、悲劇をもたらす時でさえも、小さな光が人類の内に輝き続けており、神の恵みによって、回心と和解の道に沿って再び火を灯すことができます。ヴィクトール・フランクルが正しく観察したように、恐怖の瞬間において、「わたしたちは、人間があるがままの存在であることを知りました。結局のところ、人間とはアウシュビッツのガス室を発明した存在です。しかし、主の祈りやシェマ・イスラエルを唇に浮かべながら、背筋を伸ばしてそのガス室に入っていった存在でもあるのです」133。

  5. 有限性を真に受け入れることは、わたしたちを矮小化するのではなく、神と他者の御顔を認識することへとわたしたちを開きます。まことに、わたしたちが限界――脆弱さ、苦しみ、失敗――を経験するからこそ、わたしたちは自分自身と他者の両方において、すべての人の不可侵の尊厳を認識することができるのです。この同じ経験において、わたしたちは自分たちよりも大きな兄弟愛を直感し、不公正をスキャンダルとして受け止める能力を保ち続けます。真正な文化と芸術は、この火花を保存し、悪の常態化に抵抗します。このため、特定の作品はほとんど預言的な意味を帯びてきました。ベートーヴェンの交響曲第九番は一致への願望と見なすことができ、ゲルニカは非人間化への告発、シンドラーのリストは過去を忘却の彼方に追いやらないようにとの呼びかけと見なすことができます。

  6. 歴史は単に人間の暴力の記録として現れるだけでなく、人類がわたしたちの共同生活を保護する制度を創造する能力があることの証拠としても現れます。過去2世紀の間、これはいくつかの象徴的な成果に見ることができます。赤十字国際委員会(1863年)の創設は、その運用上の中立性によってすべての人への思いやりに満ちたケアを保証しています。奴隷制の廃止へとつながった長いプロセスは、法的な転換だけでなく良心の変革をも表しています。国際連合(1945年)および世界人権宣言(1948年)の設立は、少なくとも共通の理想として、人間の尊厳の普遍性を確認するための共有言語を明確にしました。そして1951年の難民条約は、迫害や危険から逃れる人々を保護する義務を認識しています。これらのいずれの事例においても、善への願望が公共の文脈――法律、制度、実践――において具体的な形をとり、権力の乱用を制限し、弱い立場にある人々を擁護する能力を示しました。しかし、これらの発展はいずれも、抵抗、狭い利益、または文化的な惰性に遭遇することなく現れたわけではありません。道徳的進歩はほとんど常に、長く困難な道のりを通じて展開し、しばしば後退によって特徴づけられます。行き詰まった和平プロセスや、環境に関する公約の遅々とした実行を考えるだけで十分でしょう。これらの成果の脆弱さそのものが、それらを開始し維持する人々の責任がいかに貴重であるかを浮き彫りにしています。

  7. 特定の出来事は、個人がすべての人の尊厳を真摯に受け止める時、歴史もまた変わりうることを明確にしています。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの証しと密接に関連したアメリカ合衆国の公民権運動や、ネルソン・マンデラの釈放と未来を憎しみに委ねないという彼の決断に続く南アフリカのアパルトヘイトの終焉などです。異なる文脈において、多くの勇気ある寛大な女性たちもまた際立っています。聖ラウラ・モントーヤ、カルカッタの聖マザー・テレサ、ドロシー・デイ、マリ・スクウォドフスカ=キュリー、マリア・モンテッソーリ、エリザベス・エリオット、ワンガリ・マータイ、ベナジル・ブット、その他数え切れないほどのすべての国々の女性たちであり、彼女たちの献身は歴史をより人間的なものにするのに貢献しました。

  8. これらの公のしるしと並んで、より隠されているが決定的な物語があります。わたしたちはそれを、貧しく危険な場所で奉仕することを選ぶ修道会の中に見ます。また、聖マキシミリアノ・マリア・コルベ、聖オスカル・ロメロ、福者エンリケ・アンヘレリのような、兄弟愛と正義の殉教者たちの中にも見ます。さらに、尊者フランシスコ・ザビエル・グエン・ヴァン・トゥアンのように、過酷でしばしば非人間的な状況の只中で、人間の尊厳とともに福音の希望を体現した証人たちの中にも見ます。何よりもそれは、ひけらかすことなくケアし、教育し、同伴し、慰める「日常生活の殉教者」たち、すなわち両親、看護師、医師、ボランティア、そして高齢者や社会から見放された人々のそばにとどまる人々の中に明らかです。彼らの証しは、善が自動的に前進するのではなく、敗北の後でさえも、新たに始めるために必要な忍耐、記憶、そして内面的な回心が必要であることを示しています。

  9. 公正な制度、信頼できる証人、そして日々の忠実さのこの絡み合いこそが、希望を支え、心を退行させることなく技術的進歩のための明確な方向性を提供するのです。このため、人類は――その偉大さと傷つきやすさのすべてにおいて――決して取って代わられたり、超えられたりしてはなりません。わたしたちは、関係性と愛の能力という人間性の本質そのものを放棄しない限りにおいて、苦しみを和らげ、新たな可能性を開く技術的進歩を受け入れることができます。これは一つの決定的な問いへと導きます。もし真の「人間を超えるもの」が存在するとすれば、それはどこに見いだされるのでしょうか。キリスト教の信仰は、その問いに対し、技術的な神格化からではなく、キリストにおいて受けられた神の恵みを通じてもたらされる成就を指し示すことによって答えます。

真の「人間を超えるもの」:恩寵とキリスト教的ヒューマニズム

  1. 「人間を超えるもの」という表現は、技術的な約束の独占領域ではありません。何世紀にもわたり、キリスト教の伝統は、人間は自分自身の本性の境界に閉じ込められているのではなく、むしろ自己超越へと召されていると主張してきました。それは現実からの逃避や自らの限界の軽視によるのではなく、愛における成就を通じてです。信仰は、神からの賜物として生じる「彼方」への開放性を認識します。この変容は聖霊の働きです。聖トマス・アクィナスが教えたように、この引き上げと変容のプロセスは「被造物のあらゆる能力を超える」134ものです。なぜなら、無限の不均衡がわたしたちの有限な本性と神の命とを隔てているからです。135 それにもかかわらず、わたしたちがこの世界の限界を旅しながらも、その尽きることのない命の核心に入り込むことは可能なのです。この移行を可能にする方は、ご自身を与える永遠なる方をおいて他にありません。まことに、「無限の」不均衡を克服するのは神ご自身です。136 キリストにおいて、人間の再創造が起こるのです。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去り、見よ、すべてが新しくなったのである」(コリント二5章17節)。

  2. 神の恵みによって自分自身を超越する可能性を受け入れる時、わたしたちは自らの本性を否定するわけでも、人間らしさを失うわけでもありません。それどころか、教皇フランシスコが説明したように、「わたしたちが『人間を超えるもの』になる時、つまり神がわたしたちをわたしたち自身を超えて導き、わたしたちの存在の最も完全な真理に到達させてくださる時、わたしたちは完全に人間となる」137のです。ここにこそ、プロメテウス的な夢からの根本的な脱却があります。人類を救うのは、自己充足の強化ではなく、解放する関係、すなわち変容させる交わりなのです。この光に照らすと、既存のものを単に分類し最適化するだけの技術は、どれほど意図的でなくとも、変化と成長の障害となり得ます。アルゴリズムにとって、エラーは修正されるべき欠陥ですが、人間にとって、エラーは深い変化のための触媒となり得ます。人の未来は計算可能なものではなく、神の尽きることのない恵みによって高められたその人の自由と、育まれた関係性に依存しているのです。

二つの都と二つの愛

  1. キリスト教的ヒューマニズムは、科学や技術を拒絶するのではなく、感謝と現実主義をもってそれらを受け入れ、より高い召命のうちに根づかせます。人類の創造的な知性は、苦しみを和らげ、新たな可能性を開くことのできる賜物ですが、それは常に共通善、正義、弱い立場にある人々と被造物への配慮へと方向づけられなければなりません。この意味で、真の二者択一は、熱狂か恐怖かではなく、二つの発展の道の間にあります。すなわち、個人と諸民族に奉仕する進歩か、それとも彼らを権力の論理に従属させる進歩か、ということです。究極的には、重要な問いは聖ヨハネ・パウロ2世が提起したままです。AIは「地球上の人間の生活を、その生活のあらゆる側面において『より人間的』にするのか? 人間によりふさわしいものにするのか?」138 もしその答えが「イエス」であるなら、わたしたちはそれを、『ネヘミヤ記』で語られているエルサレムの再建に似た、忍耐強く、共有された再建の歩みにおいて責任をもって受け入れるべき機会として認識することができます。しかし、もし心が枯れ、人間の絆が擦り切れる一方で力が増大するなら、わたしたちは新たな形態のバベル――壮大でありながら、根本的に非人間化する建設――に直面していることになります。

  2. この進歩の二者択一の道と、わたしたちがそれをどう解釈し、どう生きるかについて問うことは、究極的にはわたしたち自身の心を探求する問題です。わたしたちが関係性、労働、制度をどのように理解し形作るかは、実際にはわたしたちの根本的な価値観を明らかにしています。結局のところ、それはすべて、わたしたちが最も大切にしているものから生じています。これは、個人として、また社会として、わたしたちが真に大切にしているものを導き、わたしたちの生活と行動を方向づける愛です。聖アウグスティヌスは、人類の歴史を二つの愛の間の闘争として描写しました。それは、世界に住み、ともに生きる二つの方法、いわば二つの「都」を生み出します。一方は神と隣人への愛であり、他方は自己への排他的な愛です。「二つの愛が二つの都を築いた。自己への愛は神を軽蔑するまでに至る地上の都を築き、神への愛は自己を軽蔑するまでに至る天の都を築いた」139。歴史を通じてそうであったように、これらの二つの愛は今日もわたしたちの心の中で優位性をめぐって争い続けています。AIの時代も例外ではありません。バベルの塔の建設、あるいはエルサレムの再建は、わたしたち一人ひとりの中から始まるのです。

第四章: 変革の時代における人間の保護。真理、労働、自由

  1. 技術的変革の課題が位置づけられる文脈、とりわけAIやトランスヒューマニズムおよびポストヒューマニズムの潮流に関連する課題を概説してきましたが、わたしたちは一般的な分析のレベルにとどまることはできません。言語やツールが変われば、日常の行動や社会関係も変わります。この理由から、わたしたちはこれらの変革が特に具体的で、時には悲劇的な結果をもたらす特定の分野に焦点を当てなければなりません。教会の社会教説の原則に照らして、デジタル変革は、共通善としての真理を再発見し、労働の尊厳を守り、あらゆる形態の依存や商業化から自由を保護するよう、わたしたちを招いています。

共通善としての真理

真理と民主主義

  1. デジタル・プラットフォームやAIシステムの使用は、公共および政治的なコミュニケーションに深刻な変化をもたらしています。対話や参加を促進しうるツールが、歪んだ物語(ナラティブ)を構築し、真理と虚偽の境界を曖昧にし、事実と意見を混同させるためにしばしば使用されています。偽情報はAIから始まったわけではありませんが、今日ではAIという強力な増幅器を見いだしています。コンテンツ、画像、動画を操作する能力は、人々を偏った、あるいは誤解を招くような視点にさらします。この問題には文化的および道徳的な側面があります。なぜなら、公共のコミュニケーションの質は社会的な信頼に直接依存しており、また逆にそれを形作るからです。同時に、真実の情報は集中的または自動化された制御からは生じません。公の議論において、事実の真理には合理的な側面があります。なぜなら、それは検証、情報源の相互確認、および責任ある論証を必要とするからです。さらに、それは深く関係的であり、信頼の絆と共有された実践、そして他者や世界との誠実な交流を通じて構築されます。共通善として認識される事実の真実性の共有された追求のみが、公正なコミュニケーションのための強固な基盤を提供できるのです。

  2. 強力な技術的および経済的資源と、介入のための実質的な人的資本を指揮する人々は、文化的な変化に影響を与えるための重要な能力を持っています。最終的に、彼らは人類、世界、存在の意味、家族、さらには神に関する真理について、多くの人々に影響を与えることができます。これは真理から切り離された純粋な力であり、他者に真実として受け入れさせたいものを、巧妙に、あるいは公然と押し付けるものです。その根底には、より深く、しばしば認識されていない「病気」があります。それは、「現代人は、自分が自分自身、自分の生活、そして社会の唯一の創造者であると誤って確信している。これは、利己的に自分の内に閉じこもることから生じる思い上がりである」140という事実です。結果として、人々は自分たちで現実を構築することができ、自分たちの主張に最もよく合うものが真理に一致すると信じるようになります。聖ヨハネ・パウロ2世は、この「真理の危機」の結果について考察し、「人間の理性によって認識可能な、善についての普遍的な真理という考えが失われると、必然的に良心の概念も変化する」141と述べるに至りました。そのような文脈においては、わたしたちに先行し、良心が受け入れなければならない普遍的に妥当な真理は、もはや認識されなくなります。これは教皇フランシスコに現実主義をもってこう問うよう促しました。「各々の人間が神聖で不可侵であるという、長年の考察と大いなる知恵から生まれた確信のない法律とは何でしょうか?」 そして彼はこう結論づけました。「もし社会が未来を持とうとするならば、わたしたちの人間の尊厳の真理を尊重し、その真理に服従しなければなりません。殺人が悪であるのは、単にそれが社会的に受け入れられず、法律によって罰せられるからではなく、より深い確信によるものです。これは、理性の行使によって到達し、良心において受け入れられた、交渉不可能な真理です。社会が気高く品位あるものであるのは、とりわけ真理の追求を支持し、最も基本的な真理に固執しているからなのです」142。

  3. 真理の探求は、それ自体が共通善に貢献するための手段である民主主義の不可欠な要素です。何が真理であるかについての問いがその魅力を失い、有用または効果的と思われるもので満足する実用主義が定着する時、民主的な生活は弱体化します。結局のところ、民主主義は単なる規則や手続きだけから成るのではなく、何よりも事実との確固たる一致と、個人および社会全体の善に対する真のコミットメントから成るものなのです。真理への無関心は、ゆっくりと、しかし確実に全体主義への転落をもたらします。哲学者のハンナ・アーレントが書いたように、そのような体制の理想的な対象は、イデオロギー的に確信している人々というよりは、むしろ「事実と虚構(すなわち、経験の現実)の区別、および真と偽(すなわち、思考の基準)の区別がもはや存在しない人々」143なのです。

コミュニケーションと集合的想像力

  1. この観点から、コミュニケーションは「情報の伝達だけでなく、文化の創造でもある」144ことを思い起こすことが重要です。デジタル環境内で流通するコンテンツは、人々が世界を認識する方法を形作り、わたしたちの欲望を方向づけ、日々の選択に影響を与えるイメージや物語を集合的意識に導入します。オンラインで生み出されたものが今や人々の生活、特に最も若い人々の生活の一部となっているため、これは「平行した世界でも純粋な仮想世界でもありません」145。

  2. この理由から、デジタル・プラットフォームやコミュニケーション手段を管理する人々は、集合的想像力に影響を与え、特定の現実のビジョンを望ましいものとして提示するかなりの能力を持っています。インターネット上で育まれる文化が、過度の気晴らし、均質化、または支配の道具となるのではなく、内面の自由と批判的思考が成熟できる環境となるように、そのような力は、真理の追求と人間の尊厳への尊重によって絶えず導かれなければなりません。

コミュニケーションのエコロジーに向けて

  1. わたしたちの最初の任務は、技術的なツールを悪魔化したり偶像化したりすることではなく、真理は共通善であり、権力や影響力を持つ人々の所有物ではないという基本原則に基づいてそれらを利用することです。したがって、わたしたちはコミュニケーションのエコロジーを促進しなければなりません。公共政策のレベルでは、コンテンツの選択とその開発の背後にある意思決定がより透明になり、個人データを保護するための規範を確立することが伴います。社会的および文化的な側面に関しては、中間の組織、真面目なジャーナリズム、および議論のためのフォーラムを強化することが必要であり、そこでは、即座の反応よりも、理路整然とした論証と検証がより大きな重みを持ちます。家族や学校にとっては、デジタル・ツール、AI、およびオンラインの商業的・金融的プラットフォームの適切かつ批判的な使用に関する、新たな教育的意識と形成に対するニーズが高まっています。大学において、主要な課題は知識の統合にあり、複雑さを把握するための知識を結びつけ統合する能力と、事実を検証するために必要なスキルの両方を養うことです。

  2. キリスト教共同体もまた、コミュニケーションの透明性と事実の誠実な追求に自らを委ねるよう召されています。悲しいことに、常にそうであったわけではありません。教会や教会の現実のメンバーでさえも、痛ましい真実が明るみに出るのを、わたしたちは恥じ入りながら目撃してきました。特に、真理への情熱に突き動かされた一部のジャーナリストたちは、不公正や虐待を明るみに出す上で決定的な役割を果たしました。彼らに対し、わたしは教皇フランシスコがジャーナリストたちに向けて語った言葉を繰り返したいと思います。「教会で何が間違っているかについて教えてくれたこと、それを隠蔽しないように助けてくれたこと、そして虐待の被害者に声を与えてくれたことにも感謝します」146。しかし、警戒と透明性は、何よりもまず教会自身の重大な責任であり続け、わたしたち自身についての不都合な真実と向き合うことを他者から強いられるのを待つべきではありません。

デジタル時代のための教育的協定

  1. 特定の利益やコミュニケーション戦略に奉仕するために真理がしばしば歪められる時代において、教育の分野は決定的な重要性を帯びます。しかし、急速な技術の変革は、わたしたちが教育のレベルでいかに準備不足であるかを明らかにしています。デジタルメディアの普及は、即時性と過剰な刺激の文化を育み、それが真理を探求するために必要な努力に対する疲労、退屈、無関心を生み出しています。

  2. 対照的に教育は、忍耐を必要とする長い旅であり、それゆえに発達のための時間と、外見を超えた現実への関与のための時間を必要とします。すべてのテクノロジーはそれを使用する人々を形作るため、これは根本的な問題です。したがって、AIの使用について人々を教育するには、いつ、どのような目的でそれを使用「すべきではないか」を決定することを教えることが含まれます。答えや要約を得る速さと容易さは、問いを発したいという欲求を消し去る危険性があります。問いを発するということは、時間をかけて初めて実を結ぶプロセスなのです。プラトンが書いたように、最も深く重要な事柄は、多くの時間と努力を費やし、他者との議論に従事し、理解の火花がわたしたちの内で燃え上がるまで、火打ち石のように互いのアイデアや経験を「打ち合わせる」ことによってのみ学ばれるのです。147 したがって、わたしたちはAIの使用を自制する方法を学び、完璧な機械という約束、すなわち人間の思考が最も必要とされる時に、それを余計なもののように見せかけるあの巧妙な誘惑から、若者たちを守らなければなりません。

  3. 近年、心理学および精神医学の文献は、デジタル・デバイスやソーシャル・メディアへの早期かつ監視のない接触が、睡眠、注意力、感情のコントロール、および関係性、特に人生の最も脆弱な段階において、時に悲劇的な結果を伴う悪影響を及ぼしうることを、ますます強く指摘しています。これは、感受性を害する暴力的なコンテンツや品位を落とすコンテンツ、ポルノや過度に性的な題材、身体や感情を些細なものとして扱うメッセージ、そして危険な行動を常態化するような提案への容易なアクセスによって、さらに悪化しています。オンラインでのグルーミング、恐喝、未成年者の性的搾取といった現象は珍しいことではなく、偽のプロフィール、危険な接触を容易にするアルゴリズム、画像や動画を操作できるAIツールの使用によって、より陰湿なものとなっています。若すぎる年齢で個人用のモバイル・デバイスを持ち、大人の監視なしにそれを使用することは、若者の脆弱性を悪化させ、依存症を助長し、孤立、いじめ、サイバーいじめ、さらには親密な画像や機密情報を共有するよう圧力を受ける危険にさらす可能性があります。

  4. 親が単独で、注意力と時間を収益化するビジネスモデルの影響力に抵抗することは困難です。したがって、大人がこの課題に取り組むのを具体的に支援できる、政策立案者、教育機関、家族の間の同盟を形成することが不可欠です。プラットフォームの目先の利益が未成年者の幸福と対立する場合、それが少数の手に集中していることに反対するための、先見の明のある公共政策が必要です。この点に関して、立法者による介入は適切です。年齢制限を設け、監視の全負担を家族に押し付けるのではなくサービス提供者に責任を負わせ、あらゆる形態のオンライン上の性的搾取や暴力に対する特定の保護を提供するためです。そうして初めて、わたしたちの保護に委ねられた子供たちや思春期の若者たちは、貴重な宝物として真に守られることができるのです。148 同時に、子供、思春期の若者、そして若者たちに対し、デジタル環境において操作を認識し、自らの尊厳を守り、他者の尊厳を尊重する方法を教えることも必要です。149

学校の中心的役割

  1. 学校は、新しい世代が真理を求め愛すること、人生の意味について考察すること、そしてすべての人の尊厳を認識することを学ぶことができる場所です。この理由から、子どもたちが関係を築く能力、批判的思考力を養い、確固たる価値観を身につけて成長することを望む多くの親たちは、子どもの教育における貴重なパートナーとして学校に大きな期待を寄せています。しかし親には、自らの道徳的、文化的、宗教的信念と一致した方法で、子どものための教育と形成の種類を選択する、第一の不可譲の権利があります。今日、教育の世界は多くの緊急の課題に直面しています。

  2. 第一の課題は社会政治的なものです。個々の国家の内部においても、また世界の様々な地域間においても、基礎教育および高等教育へのアクセスに関する重大な不平等が持続しています。多くの国々において、政府は、公立学校システムを適切に支援することによってであれ、この不可欠なサービスを提供する私立機関を援助することによってであれ、すべての人に質の高い教育を保証するために必要な資源をまだ投資していません。様々なレベルにおいて、教育のかなりの部分が私立機関に委ねられている場合、特に公的支援が不十分な状況では、就学の機会が家族の財政力に過度に依存するようになる可能性があります。このリスクに直面しつつも、家族の経済状況が許さない場合であっても、あらゆる背景を持つ子どもや若者の包括的なアクセスを保証している多くの私立カトリック教育機関の貢献を認識し、奨励することが重要です。

  3. 第二の主要な課題は教育学的なものです。多くの教育システムは、変化のペースについていき、生徒の全人的な成長を支援することに苦労しています。情報技術とAIの進歩は、異なる時代のために設計されたカリキュラムを急速に時代遅れなものにしています。一方、学校の組織、物理的な空間、評価方法、および教師自身の役割は、人間のあらゆる次元に取り組む、真に全人的な教育を促進するために再考されなければなりません。教師が新しい技術に積極的に関わり、生徒が受動的にその影響に屈するのではなく、責任をもって、批判的かつ創造的にそれらを使用するよう助けることができるように、教師の専門的な生涯を通じて継続的な形成を支援することが必要です。

  4. 第三の主要な課題は知的であり、知識に関するものです。注意深く取り組まなければ、真理への愛を欠いた教育システムが出現し、そこでは情報の絶え間ない流れが、探求、考察、識別の不可欠な実践に取って代わる可能性があります。知識がますます断片化するにつれて、現実を全体として把握すること、意味についての深い問いを投げかけること、または真正で批判的かつ創造的な思考を発達させることが困難になります。多くの教育者はすでに、人々が「多くのことを知っている」にもかかわらず、生活の方向性を見いだすのに苦労しているという非人間化の兆候を報告しています。これは部分的には、情報とより深い知識を結びつけたり、目的意識を維持したりする能力の欠如によるものです。真に健全な態度が必要とされており、それには沈黙、深い学習、読書、そして賢明な分析を組み込んだリズムが求められます。なぜなら、これらの要素がなければ内面の自由が損なわれる可能性があるからです。

  5. 教会の社会教説は、家族、学校、キリスト教共同体、および公的機関に対し、刷新された教育的協定を結ぶよう招いています。これは、基本原則が教育目標に翻訳された時に形をとります。それには、節度と限界の感覚を生徒に教えること、人間の創意工夫によって提供される、または利用可能になる財を享受する他者および将来の世代の権利の認識、自由と責任、そして超越性と共通善の感覚が含まれます。学校はデジタル世界のペースに従うよう呼ばれているのではなく、デジタル空間自体が提供できないもの、すなわち、信頼できる関係を学び、発展させるための共有された時間を提供するよう呼ばれているのです。

デジタル移行期における労働の尊厳

労働の価値

  1. 『レールム・ノヴァルム』に始まる社会教説の出現以来、教会は労働者の保護と、あらゆる形態の搾取と戦う必要性を強調してきました。しかしながら、何よりも教導権は、労働の中に社会問題全体を理解するための「不可欠な鍵」150を認識してきました。なぜなら、個人は自らの労働を通じて、存在の多くの次元を発展させるからです。これに照らすと、祈りと労働を一つに結びつけ、日々の活動が神の召命に対する人間の応答の一部であることを示した、ヌルシアの聖ベネディクトの偉大な直観を理解することができます。創造主の似姿として創造されたわたしたち自身の労働は、ある意味で神の業を継続するものです。なぜなら、わたしたちは労働によって社会の進歩と共通善に貢献し、受けた能力を善用し、世界を改善し美しくし、家族を養い、協力的な関係に携わり、傾聴と対話を通じて、誰も一人では達成できない何かをともに築き上げることを学ぶからです。

  2. これらの理由から、労働は単なる手段ではありません。それはわたしたちの生活の尊厳を表現し、高めるものです。それは人間の条件の要請であり、成熟、発展、個人的な充足への正常な道です。この点に関して、貧しい人々への財政支援は緊急時には必要となるかもしれませんが、それが唯一の解決策となることはできません。なぜなら、目標は各人が自らの労働を通じて尊厳をもって生きられるようにすることだからです。151

  3. 今日、自動化、ロボット工学、およびAIの融合は、労働の構造そのものを急速に変容させています。これはすべての人に大きな改善をもたらすと言われています。しかし現実には、この「新しい」働き方が必ずしもより良いものであるとは限りません。「AIは日常的なタスクを引き受けることで生産性を高めると約束していますが、労働者をサポートするために機械が設計されるのではなく、機械の速度と要求に労働者が適応することをしばしば強いています。その結果、宣伝されているAIの利点とは裏腹に、現在のアプローチは逆説的に労働者のスキルを低下させ、自動化された監視の下に置き、硬直した反復的なタスクに追いやる可能性があります。技術のペースについていく必要性は、労働者の主体性(エージェンシー)の感覚を損ない、彼らが仕事にもたらすことが期待されている革新的な能力を窒息させる可能性があります」152。まさにこの漂流を避けるためにこそ、パフォーマンスのみではなく、人間を中心に据えたシステムを設計することが必要なのです。

失業の問題

  1. 聖ヨハネ・パウロ2世は、失業が重大な悪であることを認識しました。まことに、それが大規模な割合に達する時、それは真の社会的な災いとなり、とりわけ国家に責任の行使を要求します。153 今日、「第四次産業革命」の只中において、イノベーションがコスト削減と利益増加のためのみに追求されることが多いため、この懸念はさらに深刻なものとなっています。154 一部の文脈においては、利用可能な雇用の大幅かつ急速な縮小に対する正当な恐れがあり、それが家族、若者、そして地域経済に深い影響を与える連鎖反応を引き起こす可能性があります。多くのセクターにおいて、これはすでに、ごく一部の高度に専門化された労働者への法外な報酬と、労働力の大部分の賃金低下とを特徴とする、雇用の不安定さと不平等の新たな形態として見ることができます。

  2. テクノロジーが人間を過酷で反復的、あるいは危険な作業から解放し、人間の活動にインテリジェントなサポートを提供することは確かに望ましいことです。しかし、雇用機会の保護と個人の代替不可能な役割は、一般的なルールとして維持されなければなりません。より大きな利益の追求は、雇用を組織的に犠牲にする選択を正当化することはできません。なぜなら、人間は目的であって手段ではなく、経済的秩序は人間の尊厳と共通善に従属し続けなければならないからです。

  3. 同時に、わたしたちはあらゆる真の移行が不連続性を伴うことを認めなければなりません。なぜなら、それは不均等で、断片化しており、時には対立を伴うからです。したがって、単一の変化のモデルや普遍的な解決策は存在しません。なぜなら、異なる対応を必要とする場所や状況があるからです。わたしたちの世界を特徴づける不平等を考慮すると、AIと計算システムの普及は、場所によって異なる効果をもたらします。豊かな社会は急速かつ無秩序に自動化を進め、労働力の必要性を減らし、失業と制度的摩擦の余地を生み出します。対照的に、世界の広大な地域は、低賃金の人間の労働と部分的な技術が真の変革を達成することなく共存する、ハイブリッドな経済の中に閉じ込められたままです。これらの地域は不安定な労働の場となり、不安定さと強制移住の温床となります。したがって、仲介する共同体を関与させ、国および地域レベルで解決策を模索しなければなりません。わたしたちは、適切に構造化されたモデル、地元の取り組み、累進的な再分配、必須財へのアクセスの新たな権利を含む、適応性のあるツールを必要としています。抽象的な調和を追求するのではなく、この変革の時期において、わたしたちは具体的な人間の共存の形を構築しなければならないのです。

  4. 労働は人間の経験の根本的な次元であり続けます。なぜなら、それは生計の手段であるだけでなく、表現、関係性、共同体への貢献のための文脈でもあるからです。したがって、労働に関連する問題は、家族が生き残るために必要な収入を超えて広がっています。技術的発展のレベルが高いにもかかわらず、人口のほんの一部にしか雇用を保証しない社会は、多くの人を強制的な不活動、責任の欠如、日々の課題や刺激の不在にさらし、その結果、人間的および文化的な貧困をもたらす危険を冒しています。これは物質的進歩と人類学的退行のパラドックスを生み出し、公正で安定した社会の平和の基盤を損ないます。この理由から、教会の社会教説は、すべての人が労働にアクセスできることが、公共政策および経済プロセスの最優先事項でなければならず、いかなる開発モデルの人間的質を評価する基準として機能すると主張しています。155 さらに、民主的なコントロールの及ばない技術的および組織的プロセスにより、労働が減少する傾向にある、あるいは急激に変化している世界の地域では、失業が社会参加を危険にさらすことのないよう、労働の性質とそれが市民権とどう結びつくかを再考しなければなりません。

  5. この確信に照らすと、わたしたちは『レールム・ノヴァルム』以降の教会の社会教説の歴史をよりよく理解することができます。その伝統から生まれた取り組みは、結社、労働組合、協同組合、および福祉組織を含め、労働法の改善、最も弱い立場にある人々の保護、より人間的な条件の促進に決定的に貢献してきました。156 しかし今日、AIによって推進される変革、市場の新たな組織化、そして社会的持続可能性にほとんど関心を払わない競争力に直面して、これらの手段はそれ自体ではもはや十分ではありません。国際レベルを含め、適切に共有された規制と保護を迅速に策定するために、政治指導者、労働団体、実業界、および科学界の間での新たな共同の努力が必要です。157 教会が一貫して支持してきた労働組合は、労働者を代表し守るために、新しいタイプの雇用とそれに伴う労働者のニーズに対して開かれていることが求められています。この状況において、大胆な決定がなければ、より大きな貧困と不平等の見通しが大きく立ちはだかり、多くの個人が周縁化され、置き去りにされ、彼らに取って代わった機械や自動化システムに囲まれることになるでしょう。

  6. この移行期において、仕事が消滅した時にだけ反応するのでは十分ではありません。わたしたちは変革を前もって監督しなければなりません。実行可能な道の一つは、まず第一に、イノベーションのための社会的基準を確立することです。ここでは、自動化とAIの導入のたびに、労働者の雇用、再訓練、および参加を保護するための検証可能な手段が伴わなければなりません。このようにして、技術は排除を生み出すのではなく、人間の時間と能力を解放する方向へと向けられるでしょう。第二に、継続的な訓練と専門的な移行をすべての人にアクセス可能にし、適応のコストが個人にのみ降りかからないようにする積極的な政策が必要です。最後に、仕事の質と尊厳を成功の指標に含めるという企業のコミットメントが必要です。これらの条件が存在する時、イノベーションはより安全で、より創造的で、より尊厳ある労働の同盟者として機能することができます。それらがなければ、イノベーションは不公正の加速器となる傾向があります。

尊厳を重んじる経済

  1. 労働市場は、新しい技術に伴うリスクがより明確に現れる分野の一つです。したがって、経済的自由は絶対的なものではないことを思い起こす必要があります。それは常に共通善とすべての人の尊厳に照らして測定されなければなりません。起業家精神によるイニシアチブは、利益にのみ依存する変数ではなく、富を生み出し生活を向上させる真の召命となり得ます。これは、尊厳ある価値のある雇用を創出することが、社会に対するその適切な奉仕の不可欠な部分であると認識する時に可能となります。158

  2. 予言的な精神をもって、教皇フランシスコは、実際の条件が多くの人々が恩恵を受けるのを妨げているにもかかわらず、言葉だけで宣言される経済的自由に対して警告を発しました。159 効率性と個人の成功を賛美する経済モデルは、不利な立場にある人々や発展の歩みが遅い人々への投資を、あたかも彼らの未来が「勝者」のペースについていく能力のみに依存しているかのように見なし、しばしば無用または不都合なものと見なします。現実には、公正な社会は、効率という単一のメンタリティを克服し、資源、創造的な解決策、および規制が最も弱い立場にある人々を優遇することを保証することのできる、警戒を怠らない国家と市民機関を必要とします。160 成長の恩恵が貧しい人々に「最終的に」届くのを待つのではなく、成長が最初から包摂的になることを保証するための決定が下される必要があります。近年の経験が示すように、経済的および金融的危機の際に最も高い代償を払うのは常に貧しい人々であり、自動的に一般的な繁栄を約束する理論は、しばしば幻想であることが証明されています。

  3. 現在の開発の指標を超えていくことが重要です。というのも、80年以上にわたり国内総生産(GDP)という概念に結びつけられてきたこれらの指標は、人々と環境の全体的な幸福に不可欠な側面をほぼ体系的に無視しているからです。GDPを補完するパラメータと指標の開発は、分析、政治的および経済的意思決定、そして地域的、国家的、および国際的な優先順位の確立に使用されるデータベースを改善するために不可欠です。新しいパラメータの導入により、立法および規制の決定が労働の尊厳、共有された繁栄、不平等の削減、および環境保護にどのような影響を与えるかについての、包括的かつタイムリーな評価が可能になります。それはまた、開発、教育プロセス、人々の考え方、および世論の概念、さらには正義に基づく時にのみ真実となる平和にも影響を与えるでしょう。

  4. 近年、金融の重要性は増しており、暗号通貨の導入などによって大きな革新を遂げています。わたしの先任者たち、特にその回勅に記された教えに含まれる考察と観察は、金融仲介部門が「必要な人間学的および道徳的基盤なしに運営された場合、明白な乱用と不公正を生み出しただけでなく、システミック(連鎖的)で世界的な経済危機を引き起こす能力も示した」161ことを浮き彫りにしています。同様に、資本からの所得が労働からの所得に取って代わるリスクがあり、労働はしばしば経済システムの主要な関心の周縁部に追いやられています。しかしながら、実体経済のための信用へと変換され、それによって雇用と自営業の双方を生み出す貯蓄は、開発と進行中の移行を伴わなければならない投資にとって中心的なものであり続けます。信用の社会的機能は不可欠なままです。それ自体のための金融は、労働の開発、創造、および進化を目的とした金融とは根本的に異なるのです。

  5. この視点は、グローバルな力学のより広い視野の一部となる必要があります。世界の富は絶対額では増加しましたが、より少数の手にますます集中しており、国家内および国家間の不平等が拡大しています。「持ちすぎる少数の人々と、ほとんど持たない多すぎる人々がいる。それが今日の論理です」162。医療分野においてさえ、科学的および技術的な進歩は、大多数の人々にとって容易にアクセスできるものではありません。このことは、最近のパンデミックの間に劇的に証明されました。一部の地域では、不必要な介入や、ごく少数の選ばれた人々だけがアクセスできる個人の能力向上(エンハンスメント)の夢に多額の費用を費やしている一方で、世界の他の地域では、数百万人の命を救うために必要な不可欠な設備が不足しています。新しい技術が自動的にすべての人に恩恵をもたらすと考えるのは、事実を無視することです。設計段階での変革において、新たな、またさらなる格差の防止を優先しない限り、技術の進歩は必然的に構造的な不平等を生み出します。今日、正義は、ケア、知識、ツール、および機会を含む、イノベーションの恩恵へのアクセスを要求しています。

  6. 不均衡を是正するためには、最も弱い人々の負担を軽減し、より大きな資源を持つ人々により多くを求める税制を含め、公正な法律と再分配の方法が確かに必要です。しかし、社会正義の追求を、あたかも経済が富を創造するためだけに存在し、政治家はそれを分配するために後から介入するだけであるかのように、富の生産の後にのみ従う別の問題と見なすべきではありません。実際、正義は資源の獲得から資金調達、生産から消費に至るまで、経済活動のあらゆる段階に関わっており、すべての選択には道徳的な結果が伴うのです。163

  7. AIとロボット工学の時代において、市場の「見えざる手」のみに依存することはもはやこれまで以上に不可能です。164 政治には、経済と技術を共通善に向けさせ、尊厳ある労働、社会的包摂、およびイノベーションの恩恵の公平な分配を促進する任務があります。多くの経済的決定は国境を越えるため、共通の戦略を定義することのできる国際協力も必要です。それは特に最も弱い立場にある国や人々を支援し、開発を促進し、福祉依存を克服するためです。これらの選択の背後にある考え方は、すべての人の計り知れない尊厳、共通善、そしてすべての人のために真に統治される世界です。聖パウロ6世が1967年に預言的に記した165平和と開発の間の相互依存は、今日でも適用可能です。なぜなら、繁栄が平和の構築と強化に貢献するのは、それが広範に及び、包摂的で、持続可能である場合に限られるからです。

  8. 実践的な言葉で言えば、AIとロボット工学の時代において、経済が人間の尊厳を優先することを保証するということは、確固たる行動のための特定の基準を採用することを意味します。第一に、透明性と説明責任。データとアルゴリズムが、信用供与、人員の選択、またはサービスや機会へのアクセスに影響を与える場合、決定が理解可能であり、異議を唱えることができ、監視の対象となることが必要です。これにより、個人が単なるプロファイルに還元されることはありません。第二に、包摂とアクセス。イノベーションの恩恵は、持っている人と持たざる人との間のギャップを技術が広げないように、スキル、インフラストラクチャー、および必須サービスへの投資と対にならなければなりません。最後に、公平性を確保するための措置。税制、社会的保護、および産業政策は、富と権力の集中によって生じた不均衡を是正しなければなりません。まことに、これらの基準はイノベーションの抑制となるものではなく、むしろそれを文明的で人間的なものにするのです。

家族と若者:希望のための社会条件

  1. 家族は主要な社会的善です。男女の永続的な結びつきに基づいて築かれた家族は、すべての人が自らの潜在能力を開発し、尊厳を意識し、真理と善の最初の形を学び、社会生活に備えるための習慣を内面化する最初の環境です。166 基礎的な権利を授けられた最初の自然な社会として、家族はすべての共同体組織の不可欠かつ代替不可能な細胞(細胞的要素)です。167 結果として、政治的プロジェクトや主要な経済的決定が家族を周縁的または二次的な役割に追いやる時、社会組織全体の真の成長が損なわれます。168

  2. しかしながら、家族は壊れやすい社会的善であり、労働の性質を再構築する経済的および技術的な変革によって直接影響を受けます。したがって、家族は文化的、法的、および経済的な支援を必要としています。失業や雇用の不安定さが家族構造に与える破壊的な影響はよく知られています。短期的には、人件費を削減したり、財務効率を最大化したりすることが有利に見えるかもしれませんが、長期的には、これは社会共存の基盤そのものを損ないます。技術的成功が祝われる一方で、社会の基盤は、まるで静かなウイルスに侵されるように、徐々に侵食されていくのです。

  3. 若者にとって、雇用の不安定さは特に破壊的です。アメリカ合衆国の司教たちが思い起こさせたように、仕事は単なる収入源ではなく、アイデンティティが形成され、友情や関係性が築かれ、実践的な責任が学ばれ、自らの召命が識別される重要な領域です。169 高い失業率、不適切な訓練システム、または構造的な障壁によって仕事へのアクセスが妨げられる時、多くの若者は人間的および専門的な充足への道が閉ざされていることに気づきます。生涯を通じて何度も仕事を変える必要性は、変化しやすく、しばしば予測不可能な経済環境のリスクに新しい世代が有能かつ自立して立ち向かえるように、継続的な更新と再訓練の機会が提供されることを求めています。170

  4. このことは、特定の公的責任を生じさせます。国家には、雇用に有利な条件を促進し、不足している場所で雇用を促進し、危機の時代にはそれを擁護することによって、事業活動を支援する義務があります。なぜなら、雇用は家族と社会にとって第一の善だからです。171 特に継続的な技術変革の時代において、わたしたちは「労働」を促進し、家族と来るべき世代を中心に据える政治的創造性を必要としています。そうでなければ、わたしたちの経済的進歩は、新たな形態の不安定さと排除へと変換されてしまうでしょう。

  5. この移行期において家族と若者を支援するには、安定を実現可能なものにする選択が求められます。上記で述べたように、労働政策は、生活の通常の条件としての不安定さに対抗し、労働力への参入と専門的な成長のための現実的な道筋を奨励し、雇用の継続性と質を促進する必要があります。第二に、健康的な生活様式を確保するための対策が必要です。なぜなら、仕事、余暇、休息の間の適切なバランスがなければ、家族は弱体化し、若者は責任感を養うのに苦労するからです。さらに、アクセス可能な教育と再訓練に投資することが不可欠です。そうすることで、デジタル経済が要求する職業上の流動性が、スキルを更新できる人とできない人の間の過酷な選別にならないようにするためです。最後に、社会的な絆を支援し、人生の選択に伴走し、不確実性が孤独や依存症を生み出すのを防ぐネットワークや教育共同体を構築する必要があります。もしこれらが実施されれば、未来を築く能力、すなわち社会を繁栄させるものを損なうことなく、これらの技術的変革を乗り越えることができるでしょう。

依存と商業化から自由を守る

依存と社会的統制

  1. 真理と教育、労働と家族について考察した上で、わたしたちは今、人間の自由に対するデジタル革命の影響を考慮し、個人のメンタルヘルスとより広範な社会的課題の両方に対するリスクに対処しなければなりません。「デジタル・アテンション・エコノミー」に関連する、より巧妙な形態の依存症を過小評価すべきではありません。なぜなら、プラットフォームやサービスはしばしばユーザーの時間と注意を引きつけるように設計され、彼らの脆弱性を利用し、内面の自由を弱めるからです。ビジネスモデルが人間の弱さを糧に繁栄する時、人は目的としてではなく手段として扱われます。そのようなシステムを設計したり資金を提供したりする人々は、無視できない道徳的責任を負っています。脆弱性を利用するモデルに対抗し、デジタルにおける節制の教育と未成年者の保護を促進することによって内面の自由を強めるテクノロジーを推進することが緊急に求められています。

  2. さらに、目に見えにくいが同様に深刻なリスクは、データの大量収集とアルゴリズムシステムの使用によって可能になる社会的統制のリスクです。すべての行動――移動、購買、人間関係、好み――が痕跡を残す時、新たな形態の権力が出現します。すなわち、多くの場合、個人がそれを十分に認識することなく、行動をプロファイリングし、予測し、影響を与える権力です。もしそのようなデータが、信用、雇用、または必須サービスへのアクセスといった具体的な機会に影響を与える決定を下すために使用されるなら、自由を損ない、最も弱い立場にある人々を差別する危険性があります。さらに、統制は明示的な禁止事項を通じてだけでなく、可視性のアーキテクチャを通じても行われます。すなわち、何が増幅され、何が不可視化されるか、何が報われ、何が罰せられるかが、最終的に意見や選択を形成し、同調や自己検閲を助長するのです。この理由から、デジタル時代における自由は単なる内面性の問題ではなく、公共の関心事でもあります。それは、明確なルール、透明性、救済の可能性、および侵入的なテクノロジーの使用に対する相応の制限を求めています。そうすることで、テクノロジーが人間のために奉仕し続け、良心を支配する形態とならないようにするのです。

  3. これらの問題の根底には、人間を操作されるべき対象や最適化されるべき資源172と見なし、際限のない利益追求に対するすべての安全措置を取り除くような、テクノクラシーおよびポストヒューマニズムのメンタリティがあります。そこで優先されるのは、自由と人間の尊厳に対する尊重よりも、むしろ効率です。一部のポストヒューマニズムの潮流は、自分たちを優越していると考えるエリートの利益に従属する「二流」の人間を想定するところまで進んでいます。この憂慮すべき見通しは、統制と選別の能力を飛躍的に高める技術的ツールと組み合わされる時、さらに深刻なものとなります。全民族を依存状態に置く特定の形態の構造的負債でさえも、奴隷制に似た従属関係を容認する、新たな形態の同じメンタリティを反映しているのです。

新たな形態の奴隷制の鎖を断ち切る

  1. 人間に対するこの歪んだ見方は、今日、デジタル経済に直接結びついたさまざまな形態の隷属に反映されています。AIの世界において、非物質的であったり魔法のようであったりするものは何もありません。一見即座で完璧に見えるすべての応答は、天然資源、エネルギー・インフラ、そして何よりも人々の広大なネットワークを含む、長い媒介の連鎖の結果なのです。デジタル経済が機能するかなりの部分は、データのラベル付け、モデルのトレーニング、そしてしばしば不穏な資料を扱うコンテンツのモデレーション(監視・管理)など、不可欠でありながらほとんど目に見えない活動に従事する何百万人もの人々の沈黙の労働に依存しています。多くの場合、これらの労働者は若者であり、主に女性で、最低限の賃金で厳しい条件下で働いています。この見えない労働に加えて、AIが依存するデバイスやマイクロプロセッサの製造に必要な資源を抽出するという、さらに過酷な労働があります。世界の一部の地域では、子どもや思春期の若者が危険な条件下で働き、レアアース(希土類元素)を抽出するための材料を砕いています。これらの人々の体は傷つき、すり減り、疲弊していますが、それは計算の流れが途切れることなく続くためなのです。さらに、犯罪ネットワークは、オンライン・プラットフォーム、メッセージ・システム、匿名の支払い方法、プロファイリング技術を使用して、人身売買の被害者――非常に多くの場合が未成年者です――を募集し、管理し、輸送しています。彼らは男女を、追跡されるべき「データ」や、世界経済の多くを支える同じデジタル回路内で動かされる「パッケージ」に貶めています。この現実は、わたしたちの時代の道徳的良心に深く問いかけています。効率性を喚起するだけでは十分ではありません。また、それが意図的に隠されたままの搾取の連鎖の上に築かれているのであれば、イノベーションの恩恵を祝うだけでは十分ではありません。もしテクノロジーが解放を約束しながら、新たな形態の世界的従属を生み出すのであれば、それは人間の尊厳という根本原則と矛盾するのです。

  2. 新たな形態の奴隷制との闘いは、AIとデジタル変革の倫理的識別にとって決定的な試金石です。レオ13世から始まった伝統との連続性の中で、教会はあらゆる形態の奴隷制、人身売買、および人間の商品化に対する断固とした非難を更新します。教会は同様に、すべての人の不可譲の尊厳と、社会の焦点であり目標としての共通善を、あらゆる個人的、社会的、政治的選択の指針とするような考察と行動の緊急の必要性を強調します。この倫理的で人間を尊重する考察がなければ、増大するデジタル・システムの力は、過去にわたしたちが現在非難しているのと同じくらい恥ずべき新たな残虐行為へとわたしたちを導くかもしれません。その一方で、わたしたちは自分たちを「進歩した」「文明化された」社会として提示し続けるのです。

  3. 人身売買は、現代の形態の奴隷制であり、人間の尊厳に対する重大な侵害として認識されなければなりません。断固として対応しなかったり、これらの慣行をいかなる形であれ容認したりすることは、奴隷制が隠蔽され正当化されていた過去の罪に似た、今日の罪に加担することになります。173

  4. その教理の発展において、教会はこれらの問題の重大性について徐々により深い認識に至りました。時とともに成熟した道徳的基準が常に利用可能であったかのように、過去の出来事を時代錯誤的に判断できないのは事実です。しかし、社会も教会も、奴隷制の惨禍を非難するまでに遅れをとったことを否定したり、過小評価したりすることもできません。古代および中世においては、多くの個人、さらには教会の機関でさえも奴隷を所有していました。近世の初期にはすでに、ローマの使徒座が君主からの要請に応え、従属の形態、ある場合には「異教徒」の奴隷化を規制し、正当化するために何度か介入しました。174 奴隷制に対する正式で絶対的かつ普遍的な非難が明確に表現されたのは、とりわけ教皇レオ13世のもと、19世紀になってからのことでした。175 この発展は、教会が自ら保護する啓示の永遠の真理を理解する上で成長したことの明確な一例を提供しています。実践において常に一貫性があったわけではありませんが――奴隷制が明確に非難されるまで長らく容認されていたことを考えれば――、奴隷制との完全な不適合が明示的に認識されるまでに18世紀を要したとはいえ、神の似姿として創造されたすべての人の尊厳は、歴史を通じて継続的に肯定されてきました。このことはキリスト教の記憶における一つの傷を構成しており、わたしたちはそれと無関係であると見なすことはできません。176 主から無限に愛されている存在としての計り知れない尊厳とは対照的に、あれほど多くの人々が耐え忍んだ計り知れない苦しみと屈辱を熟考する時、深い悲しみを感じずにはいられません。このことについて、教会の名において、わたしは心から赦しを請います。

  5. だからこそ、奴隷制という不公正に直面した過去の共犯や盲目さの記憶は、警戒への呼びかけとなるのです。わたしたちが学んだことは、現在の識別と責任へと翻訳されなければなりません。もしわたしたちが信仰によって求められている人間の尊厳という宝を尊重しなかったために、将来再び赦しを請う必要を避けたいのであれば、さまざまな形態の人身売買を明確かつ断固として非難し、この大義に献身するすべての人々とともに、予防、保護、解放、リハビリテーションの具体的な取り組みを支援することが、今日わたしたちの役割なのです。

  6. 今日でさえ、植民地主義は新たな形をとっています。それはもはや身体を支配するだけでなく、データを流用し、個人の生活を搾取可能な情報へと変容させます。地域全体、特に構造的な脆弱性と限られた地政学的な関連性を特徴とする地域が、現在、新たな抽出のメンタリティ、すなわち健康データ、疫学プロファイル、遺伝子マップ、および人口統計情報の抽出にさらされています。これらは力の新たな「レアアース」となっています。すなわち、これらの不可欠なデータは、一度集約され分析されると、予測モデルを訓練し、投資戦略を導き、危機を予測し、そして何よりも、誰が、何が重要であると見なされるかを決定するために使用されるのです。支援、研究、または革新の口実のもとに収集されることが多い全民族の健康データを管理する人々は、未来に対する構造的な影響力を保持しています。彼らはニーズと市場を形作ることができるからです。彼らはまた、誰に対して医薬品、投資、および保護が割り当てられるかを他者よりも先に決定することができます。ここに、わたしたちの時代の最も緊急な道徳的課題の一つがあります。すなわち、共有された知識が、支配の手段ではなく真の共通善となるようにすることです。これには、個人に彼らを記述するデータを返還するだけでなく、そのデータがどのように、誰によって、誰の利益のために使用されるかを決定する能力をも返還することが必要です。そうでなければ、デジタル時代はポスト植民地主義ではなく、別の形の植民地主義となるでしょう。

  7. 新たな形態の奴隷制は、経済の連鎖とデジタル・インフラによって煽られています。したがって、いくつかの面での行動が必要です。第一に、技術産業とデジタル経済を支えるサプライチェーンは、隠れた搾取の上に競争優位性が築かれないように、より透明になる必要があります。第二に、企業や投資家は、予防的な倫理的検証(デュー・デリジェンス)のための明確な基準を採用し、労働者の保護、強制労働との闘い、およびデータ駆動型ビジネスモデルの社会的影響の評価を優先事項の中に位置づける必要があります。さらに、デジタル・プラットフォームは、コミュニケーション、支払い、プロファイリングのツールが被害者の募集や統制の経路となるのを防ぐために、当局や市民社会と責任をもって協力しなければなりません。これらの取り組みが結集する時、デジタル環境は搾取の場から、保護、予防、および人間の尊厳を促進する場へと変容することができるのです。

共有された責任

  1. これまで考察してきたさまざまな分野――公的生活における真理の探求、デジタル環境における教育、労働の変容、家族の脆弱さ、新たな形態の奴隷制――は、孤立した現象ではありません。むしろそれらは、技術が究極の基準となるならば、人間はデータ、機械の歯車、あるいは商品へと矮小化されるリスクがあるという、共通の根底にある問題を反映しています。しかし、技術が賢明な視点と統合されるならば、それは成長、正義、兄弟愛のための手段となり得るのです。

  2. この視点から、教会の社会教説は共有された責任を呼びかけています。社会教説は、これらのプロセスが先見の明をもって導かれることを求めています。すなわち、息を詰まらせることなく規制し、乗っ取ることなく保護できる制度によって。仕事と尊厳を成功の指標として認識する企業によって。信頼と関係を再構築する中間組織と教育共同体によって。そして、責任、節度、識別、真理の感覚を養う市民によって。この方法によってのみ、革新は排除や支配の源泉となるのではなく、全人的開発に真に奉仕することができるのです。そしてこの方法によってのみ、進歩の約束は真のものとして認識されるのです。なぜなら、それはすべての人の不可侵の尊厳を基準として測られるからです。

第五章: 力の文化と愛の文明

  1. AIが生活や社会の特定の側面をどのように変容させているか、特に人間の尊厳に対する深刻な影響を考察した上で、わたしたちは今、戦争というさらに悲劇的な問題に注意を向けなければなりません。ここでの問題は単に新しいツールの効率性にとどまらず、倫理や責任から切り離された技術が、生死に関する決定をより迅速かつ非個人的なものにし、武力の行使を即座の実行可能な選択肢として提示してしまうリスクにもあります。ますます相互依存が強まる世界において、平和は単なる他の問題の一つではなく、普遍的な共通善のための前提条件であり、諸民族、とりわけ統治の責任を負う人々の道徳的成熟度の試金石なのです。

  2. デジタル革命は紛争の性質を変えつつあります。従来の戦争と並行して、サイバー攻撃、情報操作、影響力工作、戦略的決定の自動化といったハイブリッドな形態が存在します。多くの技術が本質的に両義的であるという文脈において、AIはこれらのプロセスの加速要因として機能しています。結果として、防衛のために作られたものが攻撃のために急速に転用され、保護と侵略の間の境界線が曖昧になっています。AIは民間人の防衛と保護を強化することができますが、武力行使のハードルを下げ、人々を責任から遠ざけ、敵を単なる統計データに、犠牲者を「付随的被害」へと還元する文化を助長する可能性もあります。これらの変革に直面し、わたしたちは社会教説の原則――人間の尊厳、共通善、財の普遍的目的、補完性、連帯、そして正義――を思い起こさなければなりません。なぜなら、それらは技術が真に人類に奉仕しているのか、それとも人類を従属させているのかを判断するための基準だからです。したがって、わたしたちはこれらの原則を意思決定の指針として考慮すべきです。

  3. したがってこの章で、わたしは序文において聖書のイメージを通じてすでに喚起した、二つの対立するアプローチを比較したいと思います。一方には、権力とプライドに頼り、バベルの塔を建設しようとする誘惑があります。他方には、ネヘミヤの時代のように、人間性と共通善を守りながら、「少しずつ」エルサレムを再建するために必要な忍耐があります。

  4. グローバルな力学を検証するならば、二極化と暴力によって特徴づけられる権力の文化の広がりを、より明確に認識することができます。現代のバベルは、グローバル化されたテクノクラシーのパラダイムの中にだけでなく、自らの優位性を維持しようとする大国と、その優位性を奪おうと熱望する大国との間の対立する帝国主義の衝突の中にも見られ、その結果として局地的な紛争が多発しています。さらに、非人間化する野心に駆り立てられた、かつてなく強力な技術の開発やその統制を確保するための競争には、際限がないように見えます。しかし、この負のスパイラルにもかかわらず、人間性を保とうと奮闘し、共存と平和という聖なる都を築くために働いている多くの人々の姿を垣間見ることもできます。あまりにも多くの場合、わたしたちは全体的なビジョンを欠きながらも寛大な行動を起こすことのできる、この都の無意識の建設者であり、不器用な建築家です。この建設プロジェクトは、より遅く、目立たず、壮観ではありませんが、家族から国家、そして国家間の関係に至るまで、すべての共同体の意識的かつ明確な責任となるよう、より良い理解とより大きな調整を待っています。わたしたちが「愛の文明」と呼ぶのは、このコミットメントの展望であり、希望の建設現場なのです。

デジタル時代における愛の文明

  1. 聖パウロ6世が「愛の文明」177という言葉を作った時、世界は冷戦、軍拡競争、深刻な経済不安の真っ只中にありました。その文脈において、教会は体制間のイデオロギー的対立に代わる道を提案し、正義と愛(カリタス)が絡み合い、愛が経済、政治、文化生活の指導原理となる社会秩序を構想しました。今日、わたしたちはこのビジョンを断固として取り戻さなければなりません。なぜなら、愛の文明は決してナイーブなユートピアではなく、愛(カリタス)を正義の構造へと翻訳し、兄弟愛に制度的な形を与え、個人であれ民族であれ他者を共通善の構築に必要な同盟者と見なすという、要求の厳しいプロジェクトだからです。回勅『フラッテリ・トゥッティ』が思い起こさせたように、この社会的な愛だけが文化や規範となり得るのであり、それによって単なる武装した共存を、共有された未来を持つ共同体へと変容させ、安定した国際秩序をもたらすことができるのです。178

  2. この洞察は、現在のデジタル・トランスフォーメーション(変革)の文脈においてさらに根本的なものであることが証明されています。デジタル・ネットワーク、グローバル化された経済、AIの開発は、ますます緊密な絆を生み出し、ある場所で下された決定と、それが別の場所でもたらす影響をリアルタイムで結びつけています。この意味において、共通善が全人類の家族に関する権利と義務とともに、ますます普遍的な次元を帯びている今、諸民族間の相互依存の深まりに関する第二バチカン公会議の言葉は依然として時宜を得ています。179 したがって、愛の文明のためのプロジェクトは、この押し付けられた相互依存を、自発的で選び取られた連帯へと変容させる任務を負わなければなりません。これが技術的プロセスのための指針となる原則です。人工知能がわたしたちをより効率的にしたり、より結びつけたりするだけでは十分ではありません。それはまた、デジタルな近さが真の出会いと相互の配慮のための機会となるような、共有された権利と義務を持つ普遍的な人類の家族の構築に奉仕しなければならないのです。

力の文化

  1. わたしたちの時代において、資源の可用性と支配する能力が意思決定の課題と基準を指示する傾向がある、権力の文化が定着しつつあります。このようにして、人類の共通善は後景に追いやられ、戦争下にある人々の具体的な悲劇は、戦略的利益との関係で二次的な考慮事項へと還元されてしまいます。この権力の文化は社会に浸透し、関係や行動を変化させ、戦争を常態化させ、ますます大きな軍事力を追求し、多国間主義の危機を利用し、他に選択肢はないと主張する誤った現実主義を煽ることで成長しています。

戦争の常態化

  1. 1965年、聖パウロ6世の言葉が国連総会で力強く響き渡りました。「もう二度と戦争は繰り返してはならない、もう二度と!」180 わたしたちは、平和への願いや宣言にもかかわらず、過去60年間が驚くべき残虐性を伴う紛争によって特徴づけられ、しばしば民間人に大規模な影響を与え、無実の犠牲者の死、大量の避難民、社会の不安定化、そして長く残る傷をもたらしてきたことを認めなければなりません。それにもかかわらず、公の言説においては、戦争はあくまで最終手段であり、厳格な倫理的および法的制限に服すべきであり、常に平和という政治的ビジョンに向けられるべきであるという広く共有された確信がありました。第一次世界大戦直後の展開に続き、第二次世界大戦後に一つの転換点が訪れました。特に国連憲章によって証明されるように、平和が国際秩序の焦点に据えられ、「後世の人々を戦争の惨害から救う」181という意図が示されました。同様に、多くの国の憲法は、武力の行使を極限かつ厳格に制限された状況に限定しました。冷戦の最中であっても、深刻な紛争の存在にもかかわらず、新たな世界大戦は何としても避けなければならないという認識が残っていました。

  2. しかし今日、わたしたちは再軍備に関する公の言説や決定において、真のパラダイムシフト(枠組みの転換)を目の当たりにしています。国際政治の道具としての戦争が憂慮すべき形で復活している一方で、かつてその行使を制限していた倫理的原則そのものが損なわれつつあります。長期化する地域紛争、緊張の激化、および相互の脅威はほぼ日常茶飯事となっており、克服されたと考えられていた領土拡張の欲望に駆り立てられた紛争の形態が再び現れています。世論は、しばしば対立や衝突を優先するアルゴリズムによって増幅された、二極化するメディアの物語によって徐々に形成され、条件づけられています。

  3. わたしたちはまた、ホロコーストや二つの世界大戦に関する直接の証言が消えゆく中で、歴史的記憶の当惑するような喪失を目の当たりにしています。これは、フェイクニュースや物語の操作が教訓を覆い隠す文脈において、過去の選択的または歪んだ書き換えにつながります。戦争の惨禍に関する生きた記憶がなければ、政治的決定は長期的な結果を一切考慮することなく、純粋な権力に基づいて下される危険性があります。

  4. このすべてに、メディアとデジタルの次元が新しく決定的な要素を加えています。通信ネットワーク、断片化された情報環境、および対立を報酬とするアルゴリズムは、二極化と憤りを拡大し、プロパガンダを増加させ、共有された識別をより困難にする可能性があります。このようにして、戦争は戦われるだけでなく、単純化された物語、敵か味方かというメンタリティ、偽情報、そして恐怖を通じて、文化的に条件づけられるのです。歴史的記憶が薄れ、民間人や最も弱い立場にある人々を保護する倫理的原則が弱体化する時、暴力を不可欠なもの、避けられないもの、あるいは「清潔な(犠牲の少ない)」ものとして正当化することが容易になります。人類が暴力的な権力の文化に滑り落ちているのは、まさにこの文脈においてなのです。そこでは、平和はもはや引き受けるべき責任としては見なされず、紛争の間の脆弱な間隔としてしか見なされなくなっています。今日、最も厳密な意味での自衛の権利を損なうことなく、いかなる種類の戦争をも正当化するためにあまりにも頻繁に用いられてきた「正戦」理論が今や時代遅れであることを再確認することが、これまで以上に重要です。182 人類は、人命を促進し、紛争を解決するために、対話、外交、赦しなど、はるかに効果的で有能なツールを持っています。武力、暴力、および兵器の使用は関係性の貧困を反映しており、それは常に民間人に悲惨な結果をもたらします。

際限のない武力

  1. 軍産複合体の成長は現在の政治状況を決定づける特徴となっており、さまざまな国の経済における主要なセクターとなっています。経済的利益、軍事機構、および政治的決定の間の密接な結びつきは「武装国家」を生み出します。そこでは戦争が政治の自然な延長として現れ、武器市場が軍事的決定の背後にある自律的な推進力となります。また、わたしたちは戦争の背後にある莫大な経済的利益を無視することもできません。兵器産業や武器を供給する国々は、まさに紛争を糧にして繁栄する市場から利益を得ています。この意味で、世界の様々な地域で緊張を煽ることに貢献する財政的利益も存在しているのです。

  2. 軍事兵器は再び注目を集めています。過去には、全人類を破壊しうる兵器がもたらす脅威の認識が、緊張緩和と軍縮交渉への道を促進しました。残念ながら、このアプローチは置き去りにされ、「戦術的」使用の見通しを含む核兵器の進化は、そのような兵器の使用をよりあり得ないことではないように見せています。この文脈において、70カ国以上の支持を得て2021年に発効した核兵器禁止条約は重要な一歩です。しかし、主要な核保有国がそれに合意していないため、主に象徴的なものにとどまるリスクがあります。これが、核抑止力は安全保障に不可欠な前提条件であるという、広範でありながらも誤った信念につながっています。これはまた、制御が難しく、核削減合意の段階的な解体や、その使用をより実行可能な選択肢のように見せる「小型化」された兵器の開発を伴う、新たな軍拡競争にも寄与しています。

  3. 同じ論理が通常兵器による戦争にも当てはまります。軍事力、弱い外交的取り組み、および絡み合う利益の複雑さが、人的および環境的に極めて高い代償を伴い、長期化する傾向にある紛争に寄与しています。戦争は終わらせるよりも始める方がはるかに容易であり、それにもかかわらず、紛争予防に関する議論は悲劇的なほどに周縁に追いやられたままです。

  4. ジハード主義(聖戦主義)グループ、私兵、犯罪ネットワークなどの新たな武装勢力の存在により、状況はさらに不安定化しています。これは国家による武力行使の独占の終焉を印すものです。しばしばこれらのグループは、曖昧なイデオロギー的動機と具体的な経済的利益を絡み合わせ、戦争を若者や子供たちの全世代にとっての「生き方」へと変容させます。ここでの目的はもはや決定的な勝利ではなく、権力と収入の源泉としての紛争を永続させることなのです。

兵器と人工知能

  1. 上記のシナリオは、兵器システム、特にAIを組み込んだシステムの絶え間ない開発と関連しています。教皇庁は最近、自律型兵器システムを配備できる容易さが増していることで、戦争がより「実行可能」になり、人間の制御を受けにくくなっていると観察しました。これは、武力は正当な自衛の最後の手段としてのみ使用されるべきであるという原則に違反しています。183 この理由から、戦争におけるAIの開発と使用は、人間の尊厳と生命の神聖さへの尊重を保証し、そのような兵器を開発する競争を避けるために、最も厳格な倫理的制約の対象とならなければなりません。184

  2. あたかも機械が人間よりも高い一貫性をもって善悪を区別できるかのように、「人工の道徳的エージェント」について語られることがあります。しかし、道徳的判断は計算に還元することはできません。なぜなら、それは良心、個人の責任、そして他者を人格として認識することを伴うからです。したがって、致命的またはその他の不可逆的な決定を人工システムに委ねることは許されません。いかなるアルゴリズムも、戦争を道徳的に受け入れられるものにすることはできません。AIは紛争に内在する非人間性を排除するものではありません。まことに、それは紛争をより早く引き起こし、より非個人的なものにし、暴力に訴えるハードルを下げ、防衛を脅威予測へと変容させ、それによって犠牲者をデータへと還元することしかできないのです。このようにして、それは暴力は不可避であり、ただ最適化される必要があるという考えにわたしたちを慣れさせてしまいます。このことは、わたしたちが構築する人工システムに、可能な限り価値観と健全な判断を吹き込むことの重要性を減ずるものではありません。そうすることで、それらは人間が自らの良心によりよく耳を傾けることができるような道徳的エコシステムに貢献し、AIモデルが適切な境界を確立することを可能にするのです。

  3. 一般的な種類の倫理を呼びかけるだけでは十分ではありません。識別のための具体的な基準が確立されなければなりません。最初のそのような基準は個人の責任に関わるものです。攻撃の決定が自動化されたり不透明になったりすると、責任を放棄するリスクが高まります。この理由から、責任の所在は特定可能で検証可能でなければなりません。技術を設計し、訓練し、承認し、使用する者は、自らの決定に対して責任を問われなければなりません。第二の基準は、判断を下すための道徳的な時間枠に関連しています。AIは意思決定プロセスを早める傾向がありますが、スピードや効率は決して、戦争の文脈において下される不可逆的な決定の最高の動機付けとなるべきではありません。第三の基準は、民間人の特定と保護です。人間の顔を見ることなく攻撃を容易にする技術は、紛争の道徳的ハードルを下げます。標的の選択と武力の行使は、戦闘員と非戦闘員を混同したり、無防備な人々への影響を無視したりしてはなりません。

  4. これらの基準から、いくつかの交渉不可能な要求が生じます。第一に、戦争の環境で使用されるすべてのシステムは、責任と非難が「機械」に帰着しないように、意思決定プロセスを遡り、再構築できる可能性を保証しなければなりません。第二に、致死的な武力を使用する決定を不透明または自動化されたプロセスに委ねることはできず、効果的で、自覚的で、責任ある人間の制御下に留まらなければなりません。最後に、技術的な軍拡競争を抑制し、民間人とその生存に必要なインフラの強固な保護を確保するために、国際レベルにおいても共有された枠組みを確立することが不可欠です。

多国間主義の危機

  1. 権力の文化はまた、多国間システムの危機にも起因しています。すべての民族の共通の未来という概念とグローバルな共通善を保護するために設立された機関は、弱体化しているように見えます。これは構造的な限界だけでなく、それらを支援し改革しようとする共有された意志の欠如、あるいはそれらの道徳的権威を認識しようとしないことに起因しています。前進するどころか、わたしたちは20世紀の重要な転換点から後退しています。1989年のヨーロッパにおける共産主義体制の崩壊後、主として経済的なグローバル化が続きましたが、それには対話と平和を維持できる適切な政治的枠組みが欠如していました。繁栄、民主主義、安定を生み出す市場の能力に対して、ほとんど盲目的な信仰が置かれていました。現実には、グローバル化は自動的に一致と平和を生み出すどころか、原理主義的、アイデンティティに基づく、そして国家主義的な反発を引き起こしました。その結果は真の多国間主義とは程遠いものです。代わりに現れたのは、不信感が蔓延する、無秩序で紛争に満ちた多極化です。

  2. また、敵対する他者との対立の中で集団的アイデンティティを形成しようとする誘惑も再燃しており、各当事者が自らを報復の権利を持つ被害者として描く物語によって煽られています。複雑な問題を「自分ファースト」、「味方か敵か」、「わたしたちか彼らか」といった単純化されたカテゴリーに還元することは、しばしば無責任で国家間の相互の信頼を損なう決定を容易にします。国際法の力はこうして、「力こそ正義」という主張に取って代わられます。結果として、国家間の紛争を解決したり戦争犯罪を扱ったりする権限を持つ法廷はしばしば弱体化され、あるいは回避され、政治文化や社会的結束に破壊的な影響を及ぼしています。185

  3. この文脈において、平和構築は二次的な役割に追いやられています。開発協力、軍縮、紛争予防、相互信頼の確立は、権力政治の名の下に軽視されています。人道法の成果もまた危うくなっています。実際、侵略に対応する際の比例性の原則、水、食料、必須物資へのアクセスの保護、そして民間人、とりわけ子供たちの生命の尊重は、過去のナイーブな遺物と見なされるようになっています。

誤った政治的現実主義

  1. わたしたちは、深刻な精神的および文化的盲目の時代に生きています。誤った実用主義は、まるで過去から切り離された一種の「新たな創造」を開始することが可能であるかのように、わたしたちの歴史の根を断ち切るよう促します。重要な道徳的原則を引用する人々でさえ、この歴史的ニヒリズムに陥る可能性があり、20世紀の残虐行為は二度と起こり得ないと誤って信じ込んでいます。しかし現実には、同じ力学が新たな装いの下に再浮上しています。武装した均衡と抑止力のメンタリティが再び自己主張し始めているようです。しかし今日では、冷戦時代の二極間の力学とは対照的に、アクターと戦場の拡散がこのメンタリティをますます脆弱なものにしています。紛争の激化は、戦場だけでなく、経済、金融、サイバーといった前線でも戦われる非対称的で「ハイブリッド」な戦争へとつながり、そこでは偽情報や人々の恐怖を煽るキャンペーンが世論を操作するために使用されます。グローバル・サウスの国々を含む多くの国々において、軍事費の増加は、不確実な未来や認識された脅威に対する唯一の対応策として提示されています。一方、その本当の代償は最も貧しい人々に降りかかり、彼らは医療、教育、社会サービスのための資源が削減されるのを目の当たりにしています。

  2. これらの問題の中心には、支配的な力のメンタリティだけでなく、戦争は人間の本性の避けられない一部であるという文化的および人間学的な信念に基づく、誤った現実主義があります。時折の休止を除いて、事態は常にこのようであったし、これからもそうだろうと言われています! 結果として、関心はもはや平和の探求――これは国際舞台における基準点として失われています――ではなく、いかに、そしていつ軍事行動をとるかになっています。この同じ議論は、紛争に備えないことは無責任であると主張します。しかしわたしは、真に無責任なのは、良心と社会の中に戦争の不可避性への諦めの態度を植え付け、直面しているリスクを無視して、平和や対話をユートピア的または非合理的な立場として退ける「リアルポリティクス(現実政治)」、すなわち政治的「現実主義」の形態であると主張します。事実、平和はナイーブな希望でも単なる戦争の不在でもありません。むしろ、正義と愛の結実として、常に可能なものなのです。

  3. そのような風潮の中では、ニヒリズムと実用主義が絡み合い、結果として重大な過ちを常態化させてしまいます。宗教的過激主義やアイデンティティに基づく狂信は非合理的な経済政策と手を結び、一方、政治はしばしば偽情報や反対派への嘲笑に走り、組織的に恐怖と憤りを育みます。したがって、多様性はますます脅威として認識されるようになり、それが所有欲、支配への意志、覇権的野心、権力の乱用、そして自分と異なる人々への恐怖を煽り、それによって新たな紛争がほとんど気づかれないうちに発展しうる環境を作り出しています。186

  4. これこそが、あらゆる倫理的限界を無視する傾向があるため、過去の戦争よりもさらに危険かもしれない新たな戦争のための肥沃な土壌なのです。かつては容認できないと考えられていたことが、今ではほとんど躊躇なく実行されるようになり、その一方で国際社会の対応は、状況の客観的な深刻さよりも、個々の政府の利益によってますます影響を受けるようになっています。現在、決定はほとんど専ら経済的計算によって推進され、メディアの歪曲、人工的に作られた熱狂、そして必然的に打ち砕かれる「夢」によって正当化され、フラストレーションとさらなる暴力を生み出しているように見えます。人々が真に真実であるものは何もなく、原則は空虚な言葉であると信じるようになる時、彼らの心の中の導火線に火がつき、不寛容と侵略の新たな噴出へとつながるのです。

  5. こうした状況において、将来の暴力を防ぐための具体的な安全措置の問題は、未解決のままです。文化が紛争を常態化し正当化する時、危険な道が開かれます。つまり、今日では考えられないようなことが、明日には功利性や安全保障の名の下に許容されるかもしれないのです。深刻な社会的緊張を特徴とする国々において、一部の指導者が武力紛争を国内問題から注意をそらす効果的な方法、あるいは困難を管理するための冷笑的な道具として考える可能性を排除することはできません。

  6. 研究の分野で働く人々の肩には、特別な責任がかかっています。科学者、事業主、投資家、学術権威、政治家など、この分野のすべての主要な関係者は、AIに関連するものを含め、彼らが発展を支援する技術的進歩のより広い文脈に対する鋭い認識を維持しながら、透明性と責任ある考え方をもって働かなければなりません。人々が自分自身の分野だけを見ることに制限する時、彼らは自分たちが道徳的に中立な行動をとっていると自らを欺き、特定の実験を導く究極の目的に対する問いを避ける可能性があります。このようにして、彼らは――おそらく無意識のうちに――暴力、操作、および支配の新たな形態を煽る疑わしいプロジェクトに協力する危険を冒しているのです。

愛の文明の建設

  1. 永続的な紛争状態にある世界の構築は悪であり、その正体を明確に名指ししなければなりません。わたしたちの現状をこのように描写することは、暗く、あるいは悲観的に思えるかもしれませんが、わたしはこれが必要であると考えます。しかし、キリスト教の視点は悪の告発にとどまりません。わたしたちは、父が「天と地の一切の権能」(マタイ28章18節)を与えられた、十字架につけられ復活した主の光に照らして歴史を見つめます。わたしたちは現在を、あらかじめ決定された運命としてではなく、個人的および集団的な回心のための機会として考えます。さらに、わたしたちは神の国の力を信じています。それはからし種のような小さな粒から成長し、一度蒔かれれば芽を出し成長するのです(マルコ4章26-32節参照)。混乱の騒ぎがわたしたちを取り巻いている中で、善は静かに大地から成長しています。預言者イザヤの言葉を借りれば、「見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたはそれを悟らないのか」(イザヤ43章19節)。

  2. 歴史をより詳しく分析すれば、このことが裏付けられます。最も暗い夜においてさえ、主は決して諦めず、善を行い続け、弱い人々を守り、和解への道を開く男女を起こしてくださいます。聖人たち、正しい人々、そしてしばしば忘れられがちな平和を作る人々の記憶は、恵みが魔法のように紛争を排除するのではなく、悪に対する積極的な抵抗と、善を行う上での驚くべき創造性を呼び起こすことをわたしたちに示しています。キリスト者は暗闇を見て、それをありのままに認識しますが、ただ受動的に見つめるだけではありません。なぜなら、彼らは光を知っており、暗闇が光に打ち勝つことはなく、光を打ち負かすこともできないことを理解しているからです(ヨハネ1章5節参照)。このため、苦しみが最後の言葉を持っているように見える時でさえ、キリスト者は善に奉仕し、現実に意味と方向性の両方を与える神学的な希望によって支えられているのです。

わたしたちは皆、自分の役割を果たすことができます

  1. しかし、この時点で巧妙な誘惑が現れるかもしれません。それは、問題が大きすぎてわたしたちは小さすぎるため、わたしたちの選択は違いを生むことができないという考えです。これは、しばしば現実主義を装った礼儀正しい形の諦めです。確かに、誰もが違いを生むための同じ力を持っているわけではありません。統治する人、投資の決定を下す人、組織を率いる人、研究を行う人、教育する人、情報を生産または提供する人がおり、そしてただ日々の生活を送っているだけに見える人もいます。しかし、責任を免れている人は誰もいません。わたしたちは皆、自分自身の行動の領域を持っており、そこで――他のどこでもなく――わたしたちは選択しなければなりません。力のメンタリティを煽る(たとえそれが無関心、冷笑主義、嘘、または憎しみを通じたものであっても)か、それとも平和の精神を(真理、節度、親密さ、そして思いやりをもって)維持するかを。

  2. 20世紀のカトリック作家J.R.R. トールキンは、その小説の主人公の一人の言葉を借りて、わたしたちの責任を次のように描写しました。「世界のすべての潮流を支配するのはわたしたちの役割ではありません。わたしたちにできるのは、後から来る人々が耕すための清らかな大地を持てるように、わたしたちが生きるこの時代の救済のために、自分たちの知る領域に根を張る悪を根絶やしにすることです」187。愛の文明は、単一の壮大な行動から生じるのではなく、非人間化に対する防波堤として機能する、小さくとも確固たる忠実な行動の積み重ねから生まれるのです。このため、それぞれの方法で、愛の文明を築くためにわたしたちがどのように協力できるか、そのいくつかの側面に立ち止まって考察する価値があります。このテーマを網羅すると主張するつもりはありませんが、日常的および公的な責任に向けた五つの道筋を提案したいと思います。それは、言葉を武装解除する必要性、正義による平和の構築、犠牲者の視点を取り入れること、健全な現実主義を育むこと、そして対話と多国間主義の復活です。

言葉の武装解除の必要性

  1. より人間的な文明に向けてわたしたちができる第一の貢献は、自分の言葉に気をつけることです。「言葉を武装解除しましょう。そうすれば、世界を武装解除する助けとなるでしょう」188。言葉には巨大な力があり、それはわたしたちが日々の交流の中で経験していることです。例えば、語られた言葉はわたしたちの気分を良くも悪くも変えることができます。「平和はわたしたち一人ひとりから始まります。すなわち、他者を見つめ、他者に耳を傾け、他者について語る方法からです。この意味で、わたしたちのコミュニケーションの方法は根本的に重要です。わたしたちは言葉とイメージの戦争に『ノー』と言わなければなりません。わたしたちは戦争のパラダイムを拒絶しなければなりません」189。したがって、わたしたち全員が、自分が使う言葉、抱いている偏見、そしてその中にある明示的または暗黙の攻撃性について、良心を探らなければなりません。真実を語り、賢明な助言を与え、慰めを必要としている人々を支援し、不公正を非難し、声なき人々に声を与えるたびに、わたしたちは共通善に貢献する真の機会を得ているのです。

正義による平和の構築

  1. わたしたちは皆、あらゆるレベルにおいて、平和の基盤である正義の構築に貢献することができます。わたしたちは単にいかなる種類の平和――例えば、どんな代償を払ってでも紛争が存在しないこと――を求めているのではなく、むしろ正義から生まれる真の平和を求めているのです。「個人の正義とすべての人の平和の間には、非常に密接な関係が存在します」190。「正義と平和は口づけし」(詩編85編11節)という詩編の言葉について、聖アウグスティヌスは次のように書いています。「平和への願いを避ける者は誰もいないが、誰もが正義を実践しようとするわけではない(…)しかし正義の業を行いなさい。正義と平和が口づけしたことを心に留めなさい。それらは互いに争ってはいない。なぜあなたは正義に逆らうのか? ここに、例えば、盗みをしてはならないと告げる正義があるが、あなたは耳を貸さない。姦淫をしてはならないと言うが、あなたは耳を塞ぐ。自分がされたくないことを他者にしてはならないと言う。自分が言われたくないことを隣人について言ってはならない(…)それゆえ、あなたは平和を得たいと願うのか? ならば、正義を実践しなさい!」191 正義を求めることに決して疲れ果てないようにしましょう!

犠牲者の視点を取り入れること

  1. 人間であり続けるために、留保を捨てて立場を明確にしなければならない時があります。一部の紛争において、中立を保つことは不当であり、単に加担していないと主張するだけでは十分ではありません。192 わたしたちが民間人への爆撃、病院、学校、または重要なインフラへの攻撃、そして子供たちに影響を与える暴力を目撃する時、わたしたちは人間性そのものを傷つけるスキャンダルに直面しています。この理由から、わたしたちは抽象的な分析のレベルにとどまることはできません。教皇フランシスコは、苦しむ人々の「傷ついた肉に触れ」193、彼らの顔を見つめ、彼らの物語に耳を傾け、彼らの傷を認めるようわたしたちに促しました。痛ましい出来事には歴史と記憶の両方が必要です。前者は事実を語るため、後者は生きた経験を証しするためです。

  2. コミュニケーションと教育を通じて犠牲者の視点と声のための場を与えることは、戦争、そして一般的にあらゆる形態の暴力に内在する悪の深淵を認識する助けとなります。それは、わたしたちが紛争の常態化を拒絶し、人間の尊厳が侵害された時に顔を背けず、認識され、声を聞かれるという尊厳を犠牲者に回復させる助けとなります。194 これらの声に注意を払うことは、暴力的な少数派を除けば、人類は戦争を望んでいないという確信を強めます。特別な方法で、教会は犠牲者のための生きた記憶の場となることができます。聖パウロ6世が思い起こさせたように、教会は過去の戦争で亡くなった人々の声と、今日なお傷を負って生きている人々の声を自らのものとしなければならないと感じています。彼らの叫びが平和と調和への訴えとなり、新たな紛争への序曲とならないようにするためです。195

健全な現実主義を育むこと

  1. わたしたちは、政治的理想主義と冷笑主義の両方を避ける健全な現実主義を必要としています。自身の世界観を維持するために、事実を選択的に選び、それらを歪め、名前を付け替える傾向がある理想主義の一種が存在します。その提唱者たちは最終的に、自分自身の信念に合うように構築された現実の中に住むことになります。逆に、観察と諦めを混同し、力が勝るのだから常に力が勝つだろうと主張する、堕落した形の現実主義もあります。真の現実主義は、世界を変えることを諦めません。それどころか、達成できることと、それを達成するために必要な手段を決定するためにこそ、利益、恐怖、制約、そして権力の力学を明確に特定することから始まるのです。それは政治を道徳に還元するものではありません。また、暴力に屈服するものでもありません。そうではなく、信頼できる制度、検証可能な保証、忍耐強い交渉、紛争予防、そして民間人の保護を通じて、平和を単なる言葉以上のものとするための実行可能な道を模索するのです。

対話の復活

  1. 愛の文明を築くためには、わたしたちは対話に関与しなければなりません。なぜなら、これこそが人々や国家間の共存のための主要な手段であり、開かれた紛争に代わるものだからです。第二次世界大戦の前夜、ピオ12世は、平和によって失われるものは何もないが、戦争によってすべてが失われる可能性があると断言しました。彼は、誠実で忍耐強い対話は常に名誉ある解決の可能性を開くものであるため、人々は互いに語り合うことに戻らなければならないと主張しました。196

  2. まことに、対話は人間の生活の日常的な一部であり、国家間の関係にのみ関わるものではありません。それは、傾聴に基づいて兄弟愛の絆を築こうとする態度、開かれた態度、互いのために時間を作ること、さらには一緒に時間を無駄にすることさえも含みます。なぜなら、他者、自分とは異なる人々、見知らぬ人や移住者との真の出会いを経験すれば、戦争を想像することすらずっと難しくなるからです。

  3. 政治レベルでは、「権力の文化」から、対話と外交が紛争解決の標準的手段となる真の「交渉の文化」へと移行することが急務となっています。ジョルジョ・ラ・ピラは、「戦争という方法が平和という方法、すなわち交渉、出会い、収束という方法、つまり真に人間的な方法に取って代わられる」197という希望を表明しました。すべての民族が共通の未来を共有しているという認識は、「交渉の文化」がますます共有される政治的および文化的コミットメントとなり、人類を暴力の悪循環から徐々に遠ざけることができるようになることを要求しています。

  4. 統治する名誉と責任を持つ人々に対し、わたしが教皇職の初めに語った言葉を繰り返したいと思います。「わたしたちの・世界の諸民族は平和を望んでいます。そしてわたしは、彼らの指導者たちに心から呼びかけます。会いましょう、話し合いましょう、交渉しましょう! 戦争は決して不可避なものではありません。武器は沈黙させられるべきであり、また沈黙させられなければなりません。なぜなら武器は問題を解決せず、増大させるだけだからです。歴史を作るのは平和をつくる人々であり、苦しみの種をまく人々ではありません。わたしたちの隣人は第一にわたしたちの敵ではなく、わたしたちと同じ人間なのです。憎むべき犯罪者ではなく、ともに語り合うことのできる男女なのです。世界を善なる人々と悪なる人々に分断する、あの暴力のメンタリティに典型的なマニ教的な考えを拒絶しましょう」198。

  5. 暴力のメンタリティを拒絶する上で、諸宗教間の対話は決定的な役割を果たします。なぜなら、偉大な精神的道の核心には平和のメッセージがあるからです。199 一方で、神の名を用いてテロリズム、暴力、戦争を正当化する人々は、神の真の性質を裏切っています。宗教の名において戦うことは、宗教そのものを攻撃することを意味するからです。200 聖ヨハネ・パウロ2世によって喚起され、教皇フランシスコによって――例えば、アル・アズハルのグランド・イマームとの対話を通じて――前進させられた「アッシジの精神」は、信者たちがそれぞれの精神的伝統の最も真実な源泉から汲み出すことができ、そこには「神聖化された憎悪」の入る余地がないことを示しています。

外交と多国間主義の必要性

  1. 国際関係において、対話は紛争を予防し、信頼の絆を再構築するための代替不可能な外交手段です。わたしたちの時代を特徴づける衝動的な放送、攻撃的なレトリック、権力政治に直面する中、「外交の召命は、『都合が悪い』と見なされる対話相手や、交渉の正当性がないと見なされる相手を含め、すべての当事者との対話を育むことです」201。したがって、和平プロセスを前進させるために、紛争当事者間にほんのわずかな善意の兆しでも育むために、あらゆる謙虚さと忍耐を用いるべきです。

  2. サイバー空間もまた戦場となっています。AIの助けを借りて画策されるサイバー攻撃、データ操作、影響力工作は、公然たる武力紛争が勃発する前でさえ、国全体を不安定化させる可能性があります。さらに、この分野では責任の帰属が不確実であることがよくあります。誰が攻撃を実行したかが不明確な場合、不釣り合いな対応、誤算、事態の悪化の危険性が高まります。このため、外交はこの新しい環境で効果的に活動し、民間人および最も弱い立場にある人々を「目に見えない」が現実の形態の暴力から保護するために、デジタル技術の使用に関する共有された規制を交渉できなければなりません。

  3. 国際機関、とりわけ国際連合は、愛の文明を促進するための不可欠な手段です。なぜなら、それらは国家間の対話を育み、紛争の平和的解決、諸民族の全人的開発、最も弱い立場にある人々の保護、軍縮、および被造物への配慮を促進することができるからです。そのような努力を通じて、国際社会は不平等を減らし、難民とマイノリティの権利を擁護し、軍事費から人間開発へと資源を再配分し、わたしたちの共通の家を保護するために働くことができます。教皇庁はこれらの努力を支援し伴走する一方で、国連と国際政治システムの現在の弱点が深刻な改革の必要性を明らかにしていることも認識しています。これは単なる技術的な調整の問題ではありません。なぜなら、国家の倫理的基盤にも関わる確信と価値観の危機が、多国間主義を真の共通善に向けることをより困難にしているからです。202

  4. 国際的な文脈において、教皇庁の外交は福音の憐れみの原則を政治行動のための具体的な基準として採用しています。これは、教皇庁が人類への奉仕に身を置き、愛と真理の名において良心に訴え、すべての人の尊厳を守り、貧しい人々、移住者、戦争の犠牲者に代わって声を上げる方法の一つです。このようにして、教皇外交は教会の普遍性(カトリシティ)を表現し、新しい技術でさえも共通善へと方向づけることのできる愛の文明の構築に貢献しているのです。

祈りと希望

  1. 責任を行使するためのこれらの道は、祈りによって支えられ、また祈りを養います。まことに、わたしたち一人ひとりにとって、平和は第一に「わたしたちすべてを無条件に愛してくださる神、神から」203来るものです。それは、復活の日にイエスが弟子たちに与えられた賜物です。「あなたがたに平和があるように! それは復活のキリストの平和です。武装しておらず、武装解除させる、謙虚で忍耐強い平和です」204。これらの言葉をもって、わたしはペトロの座への選出の日に、教会と世界に挨拶しました。わたしは今、それらの言葉を繰り返し、すべての人にこの賜物のために祈るよう招きたいと思います。関係性と社会において平和を実現することに献身し、平和のために祈ることに決して疲れることがありませんように。

結び

  1. 「それぞれ、どのように建てるか注意すべきです」(コリント一3章10節)。この言葉をもって、聖パウロはコリントのキリスト者たちに一致を保つよう励ましました。親愛なる兄弟姉妹の皆さん、わたしたちは自分たちが築いている世界について考察し、人工知能の時代に人間を守るとはどういう意味かを自問してきました。この考察の終わりに、わたしはこの変革の時代を福音の光に照らして航海するための、地道でありながらも要求の厳しいキリスト教的生活のプログラムを提案したいと思います。この道は、神の計画を観想し、聖体に与ることで教会の一致を生き、共通善を中心とした世界を築き、おとめマリアとの一致のうちに祈ることを通じて現れてきます。

御言葉は肉となった

  1. わたしたちの世界は、しばしば安心させるようなレトリック(修辞)や魅力的なイデオロギーに包まれた、市場や影響圏の支配を掌握しようとする試みで満ちています。しかし、わたしたちの心は、マリアがその『マニフィカト(マリアの賛歌)』において、神を畏れる者への神の憐れみが代々に及ぶと宣言し称賛したような205、賢明で慈悲深いアプローチを切望しています。アルゴリズムやグローバルなネットワークがもたらす急速で不安な変化の只中にあっても、この憐れみの計画は今日、歴史を通じて展開し続けており、デジタル時代において福音に従って生きるための羅針盤となるのです。

  2. すべての中心にあるのは、受肉の神秘、すなわち肉となり、わたしたちの間に住まわれた御言葉です。貧しく傷つきやすい御子の肉体は、尊厳を奪われ沈黙を強いられた非常に多くの兄弟姉妹たちの肉体を呼び起こさせます。206 主の寄り添いを通じて、平和の賜物が逆説的な方法で世界に入り込みます。それは神の子供となる力によってなされ、わたしたちが小さな人々の涙、高齢者の脆弱さ、犠牲者の沈黙、そして自分が望まない悪に抗して戦う人々の苦闘に心を動かされることを自らに許す時に目覚めるのです。207 この傷つきながらも愛されている肉体の中に、御父は、交わりと開放性を通じて満たされた命の真の人間性をわたしたちに示し、天におけるように地でも神の御心がなされることを望むようわたしたちを導かれます。208

  3. トランスヒューマニズムやいくつかのポストヒューマニズムの思想的潮流の約束は、拡張され、ほとんど肉体を離れた人間性を追求していますが、わたしたちはその中に、わたしたちの懸念事項である切なる願い、すなわち、限界や苦しみからより解放された、より完全な生への必要性を認識しています。しかし、受肉は異なる道を開きます。一方では、古今のイデオロギーはともに、技術を通じて限界を克服し、支配を主張することによって他者の上に立つよう人類に促しています。これとは対照的に、神の御子がわたしたちの人間の条件に入られるという神秘は、全く異なるものを約束します。生ける神は、あらゆる形態の奴隷制からわたしたちを解放するために、わたしたちの歴史の中に降って来られます。209 神はわたしたちの弱さを自らに引き受け、それを救いの場へと変容させます。神に値しない瞬間や人間の状況は存在しません。「わたしたちの信仰の教えによれば、わたしたちは自らの神秘の中に、飼い葉桶に生まれた神、ユダヤに生き旅をした神、十字架上で死んだ神、墓に横たわった死せる神を持ち、そして礼拝しています」210。したがって、人類の未来は、この神の寄り添いの方法、すなわち世界の重荷を分かち合い、内側から関係性を変容させる方法を受け入れる能力の中に、その基準を見いだすのです。「おお、なんと驚くべきことか(…)人間が神であり、この神であり人である方が、それらすべての段階を通り、それらすべての状態を耐え忍び、それらを高貴にし、聖化し、ご自身の内に神格化されたのです!」211 人類を救うのは、わたしたちの歴史の最も脆い点に降臨し、それを内側から新たにする神の愛なのです。

  4. このため、信者の一人として、わたしはすべての人に、神の御子の御顔の中に、AIの時代にも光を当てる人間の偉大さを観想するよう招きます。キリストにあって、わたしたちは、自由と責任を制限する技術的プロセスの無関心な観察者となるのではなく、創造の業において協力するよう呼ばれています。212 聖霊によってわたしたち一人ひとりに刻み込まれた尊厳は、批判的に反省し、自由に選択し愛し、真の関係を形成するわたしたちの能力の中にも見ることができます。どんなに高度な計算システムであっても、自らを与える心、あるいは善悪を識別する良心を作り出すことはできません。機械が効率性において優れている場合でさえ、見つめられることを求める人間の顔が、わたしたちの歴史の中心であり続けます。この人間の顔こそが、歴史が向かっている充満なのです。それは「万物の総括」の神秘、すなわち、天にあるものも地にあるものも一切が、キリストを唯一の頭としてそのもとに一つにまとめられると御父が定められたという確信です(エフェソ1章10節参照)。この計画において、真に人間的なものは何一つ失われることはありません。まことに、すべては一つなる方において浄化され再統合されます。その方は命のあらゆる断片、あらゆる涙、そしてあらゆる真に人間的な成果を集め、それらを無(虚無)から救い出し、贖われたものとして御父へと引き渡してくださるのです。

キリストにおける一つの体

  1. わたしたちが必要としている霊性は、聖体(エウカリスチア)の霊性、すなわち愛における教会の交わりの霊性です。受肉と過越の神秘は、神がわたしたちの人間の条件に入り、ご自身の自己贈与を通じてそれを変容させることを啓示しています。この賜物は、主がご自身を与え、教会を呼び集められる聖体において、今も存在し、働いておられます。こうして主の捧げものは、一致の原理となり、新しい命の源泉となるのです。キリスト教の連帯もまたこの交わりから生じます。なぜなら、「キリストとの一致は、キリストがご自身をお与えになるすべての人々との一致でもある」213からです。聖アウグスティヌスが彼の地方教会の新しいキリスト者たちに説明したように、祭壇の上のパンとぶどう酒は、キリストにおける信者の交わりの秘跡なのです。「目に見えるものは単なる物理的な似姿に過ぎませんが、把握されるものは霊的な実りをもたらします。ですから今、キリストの体を理解したいなら、使徒パウロが信者たちに語っているのを聞きなさい。あなたがたはキリストの体です(コリント一12章27節)。もしあなたがたがキリストの体であり、その部分であるならば、主の食卓に置かれているのはあなたがたの秘跡であり、あなたがたが受けるのはあなたがたの秘跡なのです。あなたは『アーメン』と答え、そう答えることでそれに同意します。なぜなら、あなたは『キリストの体』という言葉を聞き、『アーメン』と答えるからです。ならば、あなたのアーメンが真実となるように、キリストの体の部分でありなさい!」214

  2. 典礼においてわたしたちが言う「アーメン」、わたしたちが食する御体、そしてわたしたちが飲む御血は、わたしたちの生涯全体を形作ります。聖体は「主との極めて個人的な出会いですが、決して単なる個人の信心の行為ではありません」215。聖体において、わたしたちは「キリストの教会、キリストの肢体、キリストの体である。わたしたちはキリストにあって兄弟姉妹である。そしてキリストにおいて、数多く多様であっても、わたしたちは一つである:In Illo uno unum(その一人の方において一つである)」216という現実の目に見える現れを見いだします。聖体は、貧困や周縁化に苦しむ人々への優先的な関心とともに、正義と分かち合いへとわたしたちを開きます。新しい経済的および技術的ネットワークが排除、孤立、依存を生み出す可能性がある一方で、聖体によって養われる教会は、人間関係を保護し、見えない人々に声を与え、プロセスが人々の尊厳の尊重に向けられることを保証する、異なるパラダイムを可視化するよう召されています。

現代の建設現場

  1. わたしが奨励したい霊性は、神の国への希望に駆り立てられ、共通善のために世界を築くことに身を捧げる「賢明な建築家」の霊性です(コリント一3章10節参照)。この考察の冒頭で述べたように、217現代の建設の任務は、神との関係をその中心に据えなければなりません。わたしたちの規則は、人間の限界を自然で肯定的な現実として受け入れることであり、共有された責任と福音に特徴づけられた言語によって特徴づけられるべきです。この考察の終わりに、愛の文明の計画はより明確に見えており、特に隅の親石であるキリストに堅く結ばれた多くの生きた石のおかげで(ペトロ一2章4-6節参照)、建設現場はすでに稼働しているように見えます。この任務において、わたしたちは、霊的な感傷に逃げ込んだり、自分自身の小さな世界に引きこもったりすることなく、積極的な役割を担うよう呼ばれています。わたしたちは真理に忠実であり、教育に投資し、関係を育み、正義と平和を愛さなければなりません。

  2. 真理に忠実でありましょう! 情報、意見、画像が絶え間なく流れる中で生活しているわたしたちは、ますます高度化するアルゴリズムを通じて意思決定や好みに影響を与えることがいかに容易であるかを知っています。218 この状況において、最も魅力的なコンテンツよりも正しいものを選び、即座の結果よりも知恵を追求し、真理を愛する心を育むことが不可欠です。わたしたちは、キリストがわたしたちに啓示されたように、神と人類に関する真理を常に目の前に置いておかなければなりません。あたかも現実が個人的であれ集団的であれ利己的な利益に従って形作られる単なる物質であるかのような、個人主義的および技術的な人間観を捨て去らなければなりません。219 そうではなく、教皇フランシスコが「状況に根ざした人間中心主義」220と呼んだものを育みましょう。それは、人間を、他の生き物や創造物全体との関係のネットワークの中に埋め込まれた被造物として認識するものです。真理への忠実さは、テクノロジーによって提供される可能性を、各人の尊厳とわたしたちの共通の家の未来の両方を守ることができる、知恵によって特徴づけられた枠組みの中に統合することを求めています。

  3. 教育に投資しましょう、まずは自分自身から! わたしたち全員が、信仰の教育と福音に従って生きる生活の不可欠な一部として、人間的な方法でデジタル世界に関わる方法を学ぶ必要があります。まことに、わたしたちはデジタル世界を、信仰において成熟した寛大な宣教師を必要とする、福音化されるべき新しい大陸として考えなければなりません。特定の方法において、わたしたちは大人たちが、教育の職人としての自らの召命を再発見し、広範で共有された教育的パートナーシップの支援を得て、日々忍耐強く働く覚悟を持つことを必要としています。今日、責任ある関係を築くためにテクノロジーを使用する子どもや若者に伴走し、彼らがリスクを認識し、内面の自由を育むものを選ぶよう助けることは、具体的な愛の形であり、彼らの尊厳を守るものです。技術の進化はあらかじめ決定された道筋をたどるのではなく、個人的および集団的な責任によって導くことができるのだと新しい世代に教えることは、共通善に対する最も価値ある奉仕の一つを構成します。

  4. 関係を育みましょう! スピードと断片化を好む時代にあって、人間はなお、注意深い精神、優しい言葉、そして慈しむことのできる手からのケアと認識を受けたいと切望しています。デジタル文化はつながりを増大させ、交流の新たな機会を提供します。しかし、人間の心は真の親密さに対する取り消すことのできない必要性を保持しています。わたしはすべての人に、食事をともにすること、キリスト教共同体の集い、孤独な人々と過ごす時間、貧しい人々への奉仕など、物理的な存在が依然として重要である場所と時間を大切にするよう招きます。これらは、すべての人の身体が神の住まいであり、聖霊の神殿であると信じ続ける人類のしるしです。まさにこの栄光と脆弱さの間の契約こそが、現代文化が提供する人間学的モデルを評価する基準となるのです。

  5. 正義と平和を愛しましょう! コミュニケーションや資源へのアクセスを促進する同じ技術が、最も弱い立場にある人々を搾取し、新たな形態の奴隷制を生み出し、紛争から利益を得るモデルを支援することもできます。すべての技術的または経済的な決定は霊的識別を含むべきであり、AIの進歩が正義と参加を促進しているのか、それとも少数の人々の手に富と権力を集中させているのかを評価する機会となるべきです。わたしは、デジタル生産のサプライチェーン、わたしたちのデバイスの背後に隠された労働条件、そして操作や戦争から利益を得るメカニズムを注意深く検証することを奨励します。同時に、公平性、参加、および被造物への配慮を育む実践的な方法を見いださなければなりません。わたしたちは、「この地上に新しい歴史を創造する」ために天から降って来られた方に基づく希望を宣言します。この理由から、信じる者たちは、不平等に代わってより大きな正義がもたらされ、戦争産業が平和の技術に取って代わられることを保証することに尽力します。221

  6. 未来を見据えながら、冒頭でわたしたちの同伴者また案内人として選んだネヘミヤのイメージを思い起こしたいと思います。ネヘミヤは荒廃した都の叫びを聞き、その痛みを祈りにもたらし、神の御前で識別し、助けを求め、帰還の許可を得て、仕事を組織し、内外の抵抗に立ち向かい、民の助けを借りて、レンガを一つひとつ積み重ねてエルサレムの城壁を再建しました。デジタル変革のこの時代において、わたしは彼の中にわたしたち自身の召命の印象的な例え(パラボラ)を見ます。それは、社会的および文化的な断絶の受動的な傍観者になることでも、崩れゆくものについての単なる解説者になることでもなく、歴史の建設現場――研究所、テクノロジー企業、学校、メディア、機関、地域共同体――に入り、崩壊したものを再建し、脅かされているものを保護する覚悟のある男女となることです。ネヘミヤのように、わたしたちもまた、傾聴と勇気、祈りと責任を結びつけるよう召されています。そうすることで、テクノクラシーのメンタリティや党派的利益が優勢に見える時でさえも、人間の都がより住みやすい場所となるためです。

  7. エルサレムを再建するイメージは、新約聖書の聖なる都の約束を思い起こさせます。それは何よりもまず賜物としてわたしたちに与えられます。『ヨハネの黙示録』において、新しいエルサレムは、「夫のために着飾った花嫁のように用意されて」(黙示録21章2節)、すべての神の民のための賜物として降って来ます。エルサレムの城壁はもはや防衛のための要塞ではなく、小羊の花嫁の貴重な装飾です。ネヘミヤが熱心に守ったその門は、すべての国に向けて永遠に開かれています。神の現存がすべての人に光と命を提供します。都は新しいエデンであり、渇く者には生ける水が与えられ、その命の木の葉は「諸国の民の病を治すため」(黙示録22章2節)のものです。その成就を待ち望む中、このビジョンはわたしたちへの励ましとして――分断を乗り越え、ともに働くための招きとして――わたしたちの前に置かれています。なぜなら、これこそが昨日も今日も永遠に変わらない、イエス・キリストの道だからです。

希望の歌:マリアの賛歌(マニフィカト)

  1. 御父の愛の計画を観想する信仰、わたしたちを一つの教会の体に結びつける愛、そして世界におけるわたしたちの行動を支える希望を考察してきましたが、このキリスト教的生活のプログラムの第四の柱は祈りです。マリアの歌がわたしたちのコミットメントを伴奏します。主の母となったことを告げたエリサベトの前で、マリアは賛美と喜びの賛歌を突然歌い出します。彼女の魂は主をあがめ、彼女の霊は救い主である神を喜びたたえます。神が救いの計画のために、若く、貧しく、謙虚な少女を選ばれたからです。マリアは突然、この啓示のレンズを通してすべての歴史を見ます。彼女の周りでは何も変わっていません。彼女の時代の社会政治的状況は同じままです。ローマ人は依然として彼女の土地を支配しており、彼女の民は未だに抑圧され屈辱を受けています。しかし、彼女の内部ではすべてが変わっており、これが彼女に目に見えないものを見ることを可能にするのです。神は「すでに」その腕の力を示され、「すでに」思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されました。神は「すでに」その僕イスラエルを助けられました。神は「身分の低い者の味方をされます。神の計画は、『思い上がる者、権力ある者、富める者』が勝利するように見える人間の出来事の不透明な文脈の下にしばしば隠されています。しかし、神の秘密の力は、最終的には明らかにされる運命にあるのです」222。

  2. 祝されたおとめマリアは、神の目に見えない働きを認識するようにわたしたちに教えるだけでなく、わたしたちの視線を「人間性が壊れ、世界が歪められている点、すなわち、身分の低い者と権力ある者、貧しい者と富める者、満たされた者と飢えた者の対比」へと向けさせ、「より低い位置から世界を見つめること、すなわち権力者ではなく苦しむ人々の目を通して、権力者の視点ではなく小さな人々の目を通して歴史を見ること、やもめ、孤児、見知らぬ人、傷ついた子ども、流刑者、逃亡者の視点から歴史の出来事を解釈すること」223をわたしたちに教えてくれます。こうして祝されたおとめは「贖罪の詩人であり女預言者」となります。なぜなら、彼女の唇からは「これまでに歌われた中で最も力強く革新的な賛歌、『マニフィカト(マリアの賛歌)』が宣言されるからです。キリスト教の経済の変容のビジョン、今もなおキリスト教からその起源と力を引き出している歴史的および社会的結果を明らかにするのは彼女なのです」224。

  3. マリアと同じ信仰をもって、わたしたちの持つものと自分自身を分かち合い、イエスの現存がわたしたちの間に成長し、神の国が形をとるように、わたしたちの世界における「希望の織り手」となりましょう。日常生活の謙虚な忠実さにおいて、AIの時代であっても、聖霊がわたしたちの生活の中に愛の文明をもたらす時代となり得ます。まことに、主はすべてのものを新しくし続け、受肉の光の中で救済の歴史の一部となる可能性をあらゆる時代に提供しておられます。この変化の時代において、わたしたちの歩みを導き、わたしたち一人ひとりのうちに福音への真の信仰を保たせてくださるよう、『マニフィカト』の女性であるキリストの御母に、わたしたちの願いを委ねます。そうすることで、わたしたちが、神がその住まいとされた人間の偉大さを証しすることができますように。

ローマ、サン・ピエトロ大聖堂にて、2026年5月15日、わたしの教皇職第2年に。

教皇レオ14世


Copyright © Dicastero per la Comunicazione - Libreria Editrice Vaticana

チャットセッション設定

Google AI Studio:
  temperature: 1.0
  model: models/gemini-3.1-pro-preview
  topP: 0.95
  topK: 64
  maxOutputTokens: 65536
  safetySettings:
  - category: HARM_CATEGORY_HARASSMENT
    threshold: 'OFF'
  - category: HARM_CATEGORY_HATE_SPEECH
    threshold: 'OFF'
  - category: HARM_CATEGORY_SEXUALLY_EXPLICIT
    threshold: 'OFF'
  - category: HARM_CATEGORY_DANGEROUS_CONTENT
    threshold: 'OFF'
  enableCodeExecution: false
  enableSearchAsATool: false
  enableBrowseAsATool: false
  enableAutoFunctionResponse: false
  outputResolution: 1K
  thinkingLevel: THINKING_HIGH
  enableImageSearch: false
  enableGoogleMaps: false
  enableAgentThinkingSummariesControl: false
  enableAgentVisualizationControl: false
  enableAgentCollaborativePlanningControl: false
  environmentMode: new

システムインストラクション

 
## 目的
 
提供された英語のテキスト(ローマ教皇の回勅の一節)を、カトリック教会の公式文書にふさわしい、格調高く正確な日本語に翻訳してください。
 
## 前提知識と文体指定
 
1. 文体のトーン: 
   - 現代の日本のカトリック教会で広く用いられている公式な教会文献の文体(〜です、〜ます、〜。という敬体、かつ厳かで深い精神性を湛えた表現)に統一してください。
   - 単なる逐語訳ではなく、信徒や一般の読者の心に響くような、格調高い祈りの文章として翻訳してください。
 
2. 重要語句の公式訳語指定に準拠すること
 
## 出力形式
 
- 翻訳後の日本語テキストのみを出力してください(解説などは不要です)。
- 原文の体裁に忠実であること。
- 「」等で囲まれた文節をMarkdownの太字で強調する場合には、**「文言」**ではなく、「文言」で表記すること。
  

Footnotes

  1. 第二バチカン公会議、現代世界憲章『ガウディウム・エト・スペス』、22:AAS 58 (1966)、1042。 ↩

  2. 同上、11:AAS 58 (1966)、1033-1034 参照。 ↩

  3. 第二バチカン公会議、教会憲章『ルーメン・ジェンティウム』、1:AAS 57 (1965)、5。 ↩

  4. レオ13世、回勅『レールム・ノヴァルム』(1891年5月15日)、22:ASS 23 (1890-1891)、653 参照。 ↩

  5. ベネディクト16世、回勅『カリタス・イン・ヴェリターテ』(2009年6月29日)、69:AAS 101 (2009)、702。 ↩

  6. フランシスコ、回勅『ラウダート・シ』(2015年5月24日)、104:AAS 107 (2015)、888。 ↩

  7. 同上。 ↩

  8. 聖アウグスティヌス、『告白』、I、1、1:CCSL 27、Turnhout 1981、1。 ↩

  9. フランシスコ、使徒的勧告『福音の喜び(エヴァンジェリイ・ガウディウム)』(2013年11月24日)、183:AAS 105 (2013)、1097。 ↩

  10. 第二バチカン公会議、現代世界憲章『ガウディウム・エト・スペス』、36:AAS 58 (1966)、1054;『信徒使徒職に関する教令』、7:AAS 58 (1966)、843-844 参照。 ↩

  11. 第二バチカン公会議、現代世界憲章『ガウディウム・エト・スペス』、44:AAS 58 (1966)、1065。 ↩

  12. フランシスコ、使徒的勧告『福音の喜び』(2013年11月24日)、257:AAS 105 (2013)、1123。 ↩

  13. 聖ヨハネ・パウロ2世、自発教令『ソシアリウム・シエンティアルム』(1994年1月1日):AAS 86 (1994)、209。 ↩

  14. フランシスコ、回勅『ラウダート・シ』(2015年5月24日)、61:AAS 107 (2015)、871。 ↩

  15. 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『ソリチトゥード・レイ・ソシアリス』(1987年12月30日)、41:AAS 80 (1988)、570-572 参照。 ↩

  16. 聖ヨハネ・パウロ2世、使徒的書簡『紀元2000年の到来(テルティオ・ミッレンニオ・アドヴェニエンテ)』(1994年11月10日)、35:AAS 87 (1995)、27。 ↩

  17. 「チェンテシムス・アンヌス・プロ・ポンティフィチェ財団」メンバーへの挨拶(2025年5月17日):AAS 117 (2025)、696。 ↩

  18. フランシスコ、使徒的勧告『福音の喜び』(2013年11月24日)、222:AAS 105 (2013)、1111。 ↩

  19. 同上、236:AAS 105 (2013)、1115 参照;フランシスコ、回勅『フラッテリ・トゥッティ』(2020年10月3日)、215:AAS 112 (2020)、1045-1046。 ↩

  20. 第二バチカン公会議、教会憲章『ルーメン・ジェンティウム』、13:AAS 57 (1965)、17。 ↩

  21. 聖パウロ6世、使徒的書簡『オクトジェジマ・アドヴェニエンス』(1971年5月14日)、4:AAS 63 (1971)、403 参照。 ↩

  22. フランシスコ、使徒的勧告『福音の喜び』(2013年11月24日)、243:AAS 105 (2013)、1118 参照。 ↩

  23. ピオ12世、使徒的勧告『メンティ・ノストレ』(1950年9月23日):AAS 42 (1950)、657-702 参照。 ↩

  24. 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『チェンテシムス・アンヌス』(1991年5月1日)、5:AAS 83 (1991)、799。 ↩

  25. ピオ11世、回勅『クアドラジェジモ・アンノ』(1931年5月15日)、39:AAS 23 (1931)、189;ピオ12世、「レールム・ノヴァルム50周年に際してのラジオ・メッセージ」:AAS 33 (1941)、198 参照。 ↩

  26. ピオ12世、「枢機卿団とローマ聖職者への挨拶」(1940年12月24日):AAS 33 (1941)、13 参照。 ↩

  27. 聖ヨハネ23世、回勅『マーテル・エト・マジストラ』(1961年5月15日)、2-3:AAS 53 (1961)、402 参照。 ↩

  28. 聖ヨハネ23世、回勅『パーチェム・イン・テリス』(1963年4月11日)、87:AAS 55 (1963)、301 参照。 ↩

  29. 第二バチカン公会議、現代世界憲章『ガウディウム・エト・スペス』、26:AAS 58 (1966)、1046-1047 参照。 ↩

  30. 第二バチカン公会議、信教の自由に関する宣言『ディグニタティス・フマネ』、2:AAS 58 (1966)、930-931 参照。 ↩

  31. 聖パウロ6世、回勅『ポプロールム・プログレシオ』(1967年3月26日)、14:AAS 59 (1967)、264。 ↩

  32. 同上、76:AAS 59 (1967)、299。 ↩

  33. 聖パウロ6世、使徒的書簡『オクトジェジマ・アドヴェニエンス』(1971年5月14日)、4-7:AAS 63 (1971)、404-406 参照。 ↩

  34. 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『ソリチトゥード・レイ・ソシアリス』(1987年12月30日)、36:AAS 80 (1988)、561。 ↩

  35. 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『ラボーレム・エクセルツェンス』(1981年9月14日)、19:AAS 73 (1981)、625-629 参照。 ↩

  36. 同上、10:AAS 73 (1981)、600-602 参照。 ↩

  37. 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『ソリチトゥード・レイ・ソシアリス』(1987年12月30日)、14:AAS 80 (1988)、526-528 参照。 ↩

  38. 同上、16:AAS 80 (1988)、531 参照。 ↩

  39. 同上、31-33:AAS 80 (1988)、555-559 参照。 ↩

  40. 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『チェンテシムス・アンヌス』(1991年5月1日)、46:AAS 83 (1991)、850-851 参照。 ↩

  41. 同上、42:AAS 83 (1991)、844-846 参照。 ↩

  42. ベネディクト16世、回勅『カリタス・イン・ヴェリターテ』(2009年6月29日)、21:AAS 101 (2009)、656。 ↩

  43. 同上、22:AAS 101 (2009)、657 参照。 ↩

  44. 同上、24:AAS 101 (2009)、658-659 参照。 ↩

  45. 同上、36:AAS 101 (2009)、671-672 参照。 ↩

  46. 同上、2:AAS 101 (2009)、642。 ↩

  47. フランシスコ、使徒的勧告『福音の喜び』(2013年11月24日)、198:AAS 105 (2013)、1103 参照。 ↩

  48. フランシスコ、回勅『ラウダート・シ』(2015年5月24日)、49:AAS 107 (2015)、866。 ↩

  49. フランシスコ、回勅『フラッテリ・トゥッティ』(2020年10月3日)、127:AAS 112 (2020)、1013。 ↩

  50. フランシスコ、回勅『ディレクシット・ノス』(2024年10月24日)、167:AAS 116 (2024)、1421。 ↩

  51. 教皇庁正義と平和評議会、『教会の社会教説綱要』、バチカン市国 2004、32 参照。 ↩

  52. 第二バチカン公会議、現代世界憲章『ガウディウム・エト・スペス』、24:AAS 58 (1966)、1045。 ↩

  53. 同上、22:AAS 58 (1966)、1042。 ↩

  54. 教皇庁正義と平和評議会、『教会の社会教説綱要』、38 参照。 ↩

  55. 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『人間のあがない主(レデンプトール・ホミニス)』(1979年3月4日)、14:AAS 71 (1979)、284。 ↩

  56. ベネディクト16世、回勅『カリタス・イン・ヴェリターテ』(2009年6月29日)、11:AAS 101 (2009)、647-648 参照。 ↩

  57. 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『真理の輝き(ヴェリタティス・スプレンドール)』(1993年8月6日)、31:AAS 85 (1993)、1159。 ↩

  58. 第二バチカン公会議、現代世界憲章『ガウディウム・エト・スペス』、26:AAS 58 (1966)、1046-1047 参照。 ↩

  59. 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『チェンテシムス・アンヌス』(1991年5月1日)、11:AAS 83 (1991)、806-807 参照。 ↩

  60. 教理省、宣言『ディグニタス・インフィニタ』(2024年4月2日)、7:AAS 116 (2024)、592-593 参照。 ↩

  61. 同上、8:AAS 116 (2024)、593-594 参照。 ↩

  62. 同上、1:AAS 116 (2024)、589-590。 ↩

  63. 聖ヨハネ・パウロ2世、「オスナブリュック大聖堂での障がい者とのアンジェラスの祈り」(1980年11月16日):Insegnamenti di Giovanni Paolo II, vol. III/2, バチカン市国 1980, 1232 参照。 ↩

  64. 教皇庁正義と平和評議会、『教会の社会教説綱要』、152。 ↩

  65. 聖ヨハネ・パウロ2世、「第50回国連総会での挨拶」(1995年10月5日)、2:Insegnamenti di Giovanni Paolo II, vol. XVIII/2, バチカン市国 1998, 731 参照。 ↩

  66. 聖ヨハネ・パウロ2世、「第34回国連総会での挨拶」(1979年10月2日)、7:AAS 71 (1979)、1148。 ↩

  67. 聖ヨハネ・パウロ2世、「第32回「世界平和の日」メッセージ」(1999年1月1日)、3:AAS 91 (1999)、379。 ↩

  68. 聖ヨハネ23世、回勅『パーチェム・イン・テリス』(1963年4月11日)、5:AAS 55 (1963)、259 参照。 ↩

  69. 聖パウロ6世、「世界人権会議へのメッセージ」(1968年4月15日):AAS 60 (1968)、285。 ↩

  70. 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『いのちの福音(エヴァンジェリウム・ヴィテ)』(1995年3月25日)、2:AAS 87 (1995)、402 参照。 ↩

  71. 第二バチカン公会議、現代世界憲章『ガウディウム・エト・スペス』、27:AAS 58 (1966)、1047-1048 参照;聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『真理の輝き』(1993年8月6日)、80:AAS 85 (1993)、1197-1198 参照;聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『いのちの福音』(1995年3月25日)、7-28:AAS 87 (1995)、408-427 参照。 ↩

  72. フランシスコ、回勅『フラッテリ・トゥッティ』(2020年10月3日)、208:AAS 112 (2020)、1043。 ↩

  73. 同上、209:AAS 112 (2020)、1043-1044 参照。 ↩

  74. 同上、23:AAS 112 (2020)、977。使徒的勧告『福音の喜び』(2013年11月24日)、212:AAS 105 (2013)、1108 参照。 ↩

  75. ベネディクト16世、使徒的勧告『愛の秘跡(サクラメントゥム・カリタティス)』(2007年2月22日)、83:AAS 99 (2007)、169。 ↩

  76. 第二バチカン公会議、現代世界憲章『ガウディウム・エト・スペス』、26、AAS 58 (1966)、1046-1047。 ↩

  77. 教皇庁正義と平和評議会、『教会の社会教説綱要』、164 参照。 ↩

  78. フランシスコ、使徒的勧告『福音の喜び』(2013年11月24日)、235:AAS 105 (2013)、1115。 ↩

  79. フランシスコ、回勅『フラッテリ・トゥッティ』(2020年10月3日)、105:AAS 112 (2020)、1005。 ↩

  80. 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『ソリチトゥード・レイ・ソシアリス』(1987年12月30日)、38:AAS 80 (1988)、564。 ↩

  81. フランシスコ、使徒的勧告『福音の喜び』(2013年11月24日)、220:AAS 105 (2013)、1110。 ↩

  82. 教皇庁正義と平和評議会、『教会の社会教説綱要』、169。 ↩

  83. フランシスコ、回勅『フラッテリ・トゥッティ』(2020年10月3日)、16:AAS 112 (2020)、974。 ↩

  84. 聖ヨハネ・パウロ2世、「第50回国連総会での挨拶」(1995年10月5日)、8:Insegnamenti di Giovanni Paolo II, vol. XVIII/2, 735 参照。 ↩

  85. 教皇庁正義と平和評議会、『教会の社会教説綱要』、171。 ↩

  86. 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『チェンテシムス・アンヌス』(1991年5月1日)、31:AAS 83 (1991)、831。 ↩

  87. 聖ヨハネ・パウロ2世、「レシフェの農民たちのために捧げられたミサでの説教」(1980年7月7日)、4:AAS 72 (1980)、926。 ↩

  88. 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『ラボーレム・エクセルツェンス』(1981年9月14日)、19:AAS 73 (1981)、626。 ↩

  89. フランシスコ、回勅『ラウダート・シ』(2015年5月24日)、93:AAS 107 (2015)、884;回勅『フラッテリ・トゥッティ』(2020年10月3日)、120:AAS 112 (2020)、1010 参照。 ↩

  90. フランシスコ、使徒的勧告『福音の喜び』(2013年11月24日)、189:AAS 105 (2013)、1099。 ↩

  91. 教皇庁正義と平和評議会、『教会の社会教説綱要』、187 参照。 ↩

  92. レオ13世、回勅『レールム・ノヴァルム』(1891年5月15日)、26:ASS 23 (1890-1891)、656 参照。 ↩

  93. 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『チェンテシムス・アンヌス』(1991年5月1日)、11:AAS 83 (1991)、806-807 参照。 ↩

  94. 同上。 ↩

  95. 同上、48:AAS 83 (1991)、852-854 参照。 ↩

  96. フランシスコ、回勅『フラッテリ・トゥッティ』(2020年10月3日)、169:AAS 112 (2020)、1028 参照。 ↩

  97. 同上、168:AAS 112 (2020)、1027-1028 参照。 ↩

  98. 聖パウロ6世、回勅『ポプロールム・プログレシオ』(1967年3月26日)、17:AAS 59 (1967)、265-266 参照。 ↩

  99. フランシスコ、回勅『フラッテリ・トゥッティ』(2020年10月3日)、32および54:AAS 112 (2020)、980および988。 ↩

  100. ベネディクト16世、回勅『カリタス・イン・ヴェリターテ』(2009年6月29日)、58:AAS 101 (2009)、693-694 参照。 ↩

  101. フランシスコ、回勅『フラッテリ・トゥッティ』(2020年10月3日)、116:AAS 112 (2020)、1009。 ↩

  102. 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『ソリチトゥード・レイ・ソシアリス』(1987年12月30日)、38:AAS 80 (1988)、564。 ↩

  103. フランシスコ、回勅『フラッテリ・トゥッティ』(2020年10月3日)、116:AAS 112 (2020)、1009。 ↩

  104. ベネディクト16世、回勅『カリタス・イン・ヴェリターテ』(2009年6月29日)、48:AAS 101 (2009)、685 参照。 ↩

  105. 第二バチカン公会議、現代世界憲章『ガウディウム・エト・スペス』、25:AAS 58 (1966)、1045-1046 参照。 ↩

  106. 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『ソリチトゥード・レイ・ソシアリス』(1987年12月30日)、42:AAS 80 (1988)、572-574 参照。 ↩

  107. フランシスコ、使徒的勧告『福音の喜び』(2013年11月24日)、53:AAS 105 (2013)、1042。 ↩

  108. 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『ソリチトゥード・レイ・ソシアリス』(1987年12月30日)、36-37:AAS 80 (1988)、561-564 参照。 ↩

  109. フランシスコ、「第110回世界難民移住者の日メッセージ」(2024年9月29日):AAS 116 (2024)、735 参照。 ↩

  110. 聖パウロ6世、回勅『ポプロールム・プログレシオ』(1967年3月26日)、14:AAS 59 (1967)、264。 ↩

  111. 同上、17:AAS 59 (1967)、265-266 参照;フランシスコ、回勅『フラッテリ・トゥッティ』(2020年10月3日)、125-127:AAS 112 (2020)、1012-1013。 ↩

  112. 聖パウロ6世、回勅『ポプロールム・プログレシオ』(1967年3月26日)、14:AAS 59 (1967)、264 参照;ベネディクト16世、「教皇庁駐在の外交団への挨拶」(2007年1月8日):AAS 99 (2007)、73;フランシスコ、「国際農業開発基金先住民族フォーラム第3回グローバル会議参加者への挨拶」(2017年2月15日):AAS 109 (2017)、244-245。 ↩

  113. 世界代表司教会議第16回通常総会第2会期最終文書(2024年10月26日)、17。 ↩

  114. 同上、11 参照。 ↩

  115. 同上、103-108 参照。 ↩

  116. 同上、100-101 参照。 ↩

  117. フランシスコ、回勅『フラッテリ・トゥッティ』(2020年10月3日)、94:AAS 112 (2020)、1001 参照。 ↩

  118. 教皇庁正義と平和評議会、『教会の社会教説綱要』、53 参照。 ↩

  119. フランシスコ、回勅『ラウダート・シ』(2015年5月24日)、106-109:AAS 107 (2015)、889-891 参照。 ↩

  120. R. グァルディーニ、『近代の終焉(Das Ende der Neuzeit)』、ヴュルツブルク 1951、89。 ↩

  121. 聖パウロ6世、「FAO設立25周年に際しての演説」(1970年11月16日):AAS 62 (1970)、833。 ↩

  122. フランシスコ、「包摂的資本主義のための評議会への挨拶」(2019年11月11日):L’Osservatore Romano, 2019年11月11-12日、8 参照。 ↩

  123. 教理省-文化教育省、文書『古代と新しいもの(Antiqua et Nova)』(2025年1月14日):AAS 117 (2025)、159-210 参照;フランシスコ、「第57回世界平和の日メッセージ」(2023年12月8日):AAS 116 (2024)、54-64;フランシスコ、「第58回世界広報の日メッセージ」(2024年1月24日):AAS 116 (2024)、261-266;フランシスコ、「人工知能に関するG7セッションへの挨拶:『ワクワクすると同時に恐ろしいツール』」(2024年6月14日):AAS 116 (2024)、866-875;国際神学委員会、『どこへ行くのか、人類よ? 人類の未来のいくつかのシナリオに直面してキリスト教的人間学について考える(Quo vadis, humanitas? Thinking about Christian anthropology in the face of some scenarios on the future of humanity)』(2026年2月9日);「第60回世界広報の日メッセージ」(2026年1月24日):L’Osservatore Romano, 2026年1月24日、2-3。 ↩

  124. 教理省-文化教育省、文書『古代と新しいもの』(2025年1月14日)、96:AAS 117 (2025)、201 参照。 ↩

  125. フランシスコ、「文化教育省主催の『ミネルヴァ対話』会議参加者への挨拶」(2023年3月27日):AAS 115 (2023)、465。 ↩

  126. 教理省-文化教育省、文書『古代と新しいもの』(2025年1月14日)、41:AAS 117 (2025)、178 参照。 ↩

  127. 同上、44-45:AAS 117 (2025)、179-180 参照。 ↩

  128. 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『チェンテシムス・アンヌス』(1991年5月1日)、40:AAS 83 (1991)、843 参照。 ↩

  129. 国際神学委員会、『どこへ行くのか、人類よ? 人類の未来のいくつかのシナリオに直面してキリスト教的人間学について考える』(2026年2月9日)、63 参照。 ↩

  130. 聖パウロ6世、「FAO設立25周年に際しての演説」(1970年11月16日):AAS 62 (1970)、833 参照。 ↩

  131. 国際神学委員会、『どこへ行くのか、人類よ? 人類の未来のいくつかのシナリオに直面してキリスト教的人間学について考える』(2026年2月9日)、3。 ↩

  132. 「もし心を軽んじるなら、心から話し、心をもって行動し、心を育み癒すことの意味をも軽んじることになります。心の独自性を正しく評価できなければ、知性だけでは伝えきれないメッセージを見逃し、他者との出会いの豊かさを見逃し、詩を見逃すことになります。また、歴史と自分自身の過去を見失うことにもなります。なぜなら、自分自身の本当の個人的な歴史は心で築かれるからです。人生の終わりには、それだけが意味を持つのです」。フランシスコ、回勅『ディレクシット・ノス』(2024年10月24日)、11:AAS 116 (2024)、1372。 ↩

  133. V. フランクル、『夜と霧:ロゴセラピー入門(Man’s Search for Meaning. An Introduction to Logotherapy)』、ボストン 1963、213。 ↩

  134. 聖トマス・アクィナス、『神学大全(Summa Theologiae)』、I-II, q. 112, a. 1, co; q. 114, a, 5, co.: ed. Leonina, VII, ローマ 1892、323 および 349。 ↩

  135. 同上、q. 114, a. 1, co.: ed. Leonina, VII, 344 参照。 ↩

  136. 聖トマス・アクィナス、『ボエティウス三位一体論註解(Super Boetium de Trinitate)』、q. 1, a. 2, ad 3: ed. Leonina, L, ローマ 1992、96;『神学大全』、I, q. 7, a. 1, ad 3: ed. Leonina, IV, ローマ 1888、72 参照。 ↩

  137. フランシスコ、使徒的勧告『福音の喜び』(2013年11月24日)、8:AAS 105 (2013)、1022。 ↩

  138. 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『人間のあがない主』(1979年3月4日)、15:AAS 71 (1979)、286-287。 ↩

  139. 聖アウグスティヌス、『神の国(De civitate Dei)』、XIV, 28: CCSL 48, Turnhout 1955, 451。 ↩

  140. ベネディクト16世、回勅『カリタス・イン・ヴェリターテ』(2009年6月29日)、34:AAS 101 (2009)、668-669。 ↩

  141. 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『真理の輝き』(1993年8月6日)、32:AAS 85 (1993)、1159。 ↩

  142. フランシスコ、回勅『フラッテリ・トゥッティ』(2020年10月3日)、207:AAS 112 (2020)、1043。 ↩

  143. H. アーレント、『全体主義の起原(The Origins of Totalitarianism)』、III、ニューヨーク 1962、474。 ↩

  144. メディア代表者への挨拶(2025年5月12日):AAS 117 (2025)、681-682。 ↩

  145. ベネディクト16世、「第47回世界広報の日メッセージ」(2013年1月24日):AAS 105 (2013)、183。 ↩

  146. フランシスコ、フィリップ・プレッラ氏とバレンティナ・アラスラキ氏へのピウス大十字騎士・淑女の称号授与に際しての挨拶(2021年11月13日):L’Osservatore Romano, 2021年11月13日、12。 ↩

  147. プラトン、『第七書簡』、344b-c: ed. Souilhé, XIII/1, パリ 1931 (CUF, Série grecque 63), 54 参照。 ↩

  148. 「人工知能の時代における子どもと思春期の若者の尊厳」会議参加者への挨拶(2025年11月13日):L’Osservatore Romano, 2025年11月13日、3 参照。 ↩

  149. RCSアカデミー諮問委員会メンバーへの挨拶(2025年11月7日):L’Osservatore Romano, 2025年11月7日、4 参照。 ↩

  150. 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『ラボーレム・エクセルツェンス』(1981年9月14日)、3:AAS 73 (1981)、584。 ↩

  151. フランシスコ、回勅『ラウダート・シ』(2015年5月24日)、128:AAS 107 (2015)、898 参照。 ↩

  152. 教理省-文化教育省、文書『古代と新しいもの』(2025年1月14日)、67:AAS 117 (2025)、188-189。 ↩

  153. 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『ラボーレム・エクセルツェンス』(1981年9月14日)、18:AAS 73 (1981)、622-625 参照。 ↩

  154. フランシスコ、回勅『ラウダート・シ』(2015年5月24日)、109:AAS 107 (2015)、891 参照。 ↩

  155. ベネディクト16世、回勅『カリタス・イン・ヴェリターテ』(2009年6月29日)、32:AAS 101 (2009)、666 参照。 ↩

  156. 教皇庁正義と平和評議会、『教会の社会教説綱要』、268 参照。 ↩

  157. ベネディクト16世、回勅『カリタス・イン・ヴェリターテ』(2009年6月29日)、64:AAS 101 (2009)、698 参照。 ↩

  158. フランシスコ、回勅『ラウダート・シ』(2015年5月24日)、129:AAS 107 (2015)、899 参照。 ↩

  159. 同上。 ↩

  160. フランシスコ、回勅『フラッテリ・トゥッティ』(2020年10月3日)、108:AAS 112 (2020)、1006 参照。 ↩

  161. 教理省-人間開発省、『経済と金融の問題。現在の経済・金融システムの一部の側面に関する倫理的識別のための考察(Oeconomicae et Pecuniariae Quaestiones. Considerations for an Ethical Discernment Regarding some Aspects of the Present Economic-Financial System)』(2018年1月6日)、6:AAS 110 (2018)、772 参照。 ↩

  162. フランシスコ、国際農業開発基金(IFAD)職員への挨拶(2019年2月14日):AAS 111 (2019)、309。ベネディクト16世、回勅『カリタス・イン・ヴェリターテ』(2009年6月29日)、22:AAS 101 (2009)、657 参照。 ↩

  163. 同上、36:AAS 101 (2009)、671-672 参照。 ↩

  164. フランシスコ、使徒的勧告『福音の喜び』(2013年11月24日)、204:AAS 105 (2013)、1105-1106 参照。 ↩

  165. 聖パウロ6世、回勅『ポプロールム・プログレシオ』(1967年3月26日)、87:AAS 59 (1967)、299 参照。 ↩

  166. 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅『チェンテシムス・アンヌス』(1991年5月1日)、39:AAS 83 (1991)、841 参照。 ↩

  167. 教皇庁正義と平和評議会、『教会の社会教説綱要』、211 参照。 ↩

  168. 聖ヨハネ・パウロ2世、家族への手紙『グラティッシマム・サネ』(1994年2月2日)、17:AAS 86 (1994)、903-906 参照。 ↩

  169. 米国カトリック司教会議、『光の息子たち、娘たち:若者のための牧会計画(Sons and Daughters of the Light: A Pastoral Plan for Ministry with Young Adults)』(1996年11月12日)、ワシントンD.C.、1996、I、3 参照。 ↩

  170. 教皇庁正義と平和評議会、『教会の社会教説綱要』、290 参照。 ↩

  171. 同上、214 参照。 ↩

  172. フランシスコ、「第48回世界平和の日メッセージ」(2014年12月8日)、4:AAS 107 (2015)、70-71 参照。 ↩

  173. 国際神学委員会、『記憶と和解:教会と過去の過ち(Memory and Reconciliation the Church and the Faults of the Past)』、バチカン市国 2000、5.3 参照。 ↩

  174. エウゲニウス4世の教皇勅書 Sicut Dudum(1435年1月13日)と Etsi Suscepti(1442年1月9日)、およびニコラウス5世の教皇勅書 Dum Diversas(1452年6月18日)と Romanus Pontifex(1455年1月8日)に見られるように。政治的な必要性、時には経済的な必要性さえもが、福音の要求を打ち負かしました。世俗の権力の必要性に関して、福音化の必要性が頻繁に妥協されるか、少なくとも誤解され、奴隷制がキリスト教の良心と相容れないという問題が相対化されました。 ↩

  175. レオ13世、回勅『イン・プルリミス』(1888年5月5日)、Acta Leonis XIII, VIII, ローマ、1889、169-192 参照。1866年の遅きに及んでさえ、検邪聖省が奴隷制を完全に非難することなく、その不道徳な側面と道徳的な側面を区別していたことを考慮してください:ガラの国の使徒座代理マサイア司教の様々な疑問に関する検邪聖省の訓令、1866年4月、質問15への回答。 ↩

  176. 聖ヨハネ・パウロ2世、大勅書『インカルナティオニス・ミステリウム』(1998年11月29日)、11:AAS 91 (1999)、139-141 参照。 ↩

  177. 聖パウロ6世、レジナ・チェリ(1970年5月17日):Insegnamenti di Paolo VI, vol. VIII, 506 参照。 ↩

  178. フランシスコ、回勅『フラッテリ・トゥッティ』(2020年10月3日)、183:AAS 112 (2020)、1033-1034 参照。 ↩

  179. 第二バチカン公会議、現代世界憲章『ガウディウム・エト・スペス』、26:AAS 58 (1966)、1046-1047 参照。 ↩

  180. 聖パウロ6世、「第20回国連総会での挨拶」(1965年10月4日):AAS 57 (1965)、881。 ↩

  181. 国際連合、国連憲章、サンフランシスコ(1945年6月26日)、前文。 ↩

  182. フランシスコ、回勅『フラッテリ・トゥッティ』(2020年10月3日)、258:AAS 112 (2020)、1061 参照:「ここ数十年、一つひとつの戦争が見せかけの正当化をされてきました。『カトリック教会のカテキズム』は、軍事力による正当防衛の可能性について述べており、それは特定の『道徳的正当性の厳格な条件』が満たされていることを証明することを伴います。しかし、この潜在的な権利の過度に広範な解釈に陥ることは容易です。このようにして、ある人々は『予防的』な攻撃や、『排除すべき悪よりも深刻な悪と無秩序を伴うことをほとんど避けられない』戦争行為でさえも、誤って正当化しようとするでしょう」。 ↩

  183. 教理省-文化教育省、文書『古代と新しいもの』(2025年1月14日)、99:AAS 117 (2025)、202-203 参照。 ↩

  184. 同上、103:AAS 117 (2025)、204 参照。 ↩

  185. 「東方教会援助機関会議(ROACO)総会参加者への挨拶」(2025年6月26日):AAS 117 (2025)、847-849 参照。 ↩

  186. フランシスコ、「第53回世界平和の日メッセージ」(2019年12月8日):AAS 112 (2020)、54-61 参照。 ↩

  187. J.R.R. トールキン、『指輪物語 王の帰還(The Lord of the Rings. The Return of the King)』、第3部、第5巻、第9章、ニューヨーク 1965、190。 ↩

  188. メディア代表者への挨拶(2025年5月12日):AAS 117 (2025)、682。 ↩

  189. 同上。 ↩

  190. 聖ヨハネ・パウロ2世、「第31回世界平和の日メッセージ」(1998年1月1日)、1:AAS 90 (1988)、147。 ↩

  191. 聖アウグスティヌス、『詩編講解(Enarrationes in Psalmos)』、84、12:CCSL 39, Turnhout 1956, 1172-1173。 ↩

  192. フランシスコ、回勅『ディレクシット・ノス』(2024年10月24日)、22:AAS 116 (2024)、1375-1376 参照。 ↩

  193. フランシスコ、回勅『フラッテリ・トゥッティ』(2020年10月3日)、115:AAS 112 (2020)、1008-1009。 ↩

  194. 同上、261:AAS 112 (2020)、1062 参照。 ↩

  195. 聖パウロ6世、「第20回国連総会での挨拶」(1965年10月4日):AAS 57 (1965)、878-879 参照。 ↩

  196. ピオ12世、「ラジオ・メッセージ『重大な時(A Grave Hour)』」(1939年8月24日):AAS 31 (1939)、334 参照。 ↩

  197. ジョルジョ・ラ・ピラ、『公会議についての考察(Riflessioni sul Concilio)』。フィレンツェ市長ジョルジョ・ラ・ピラ教授の「Guides de France」に対する演説(1962年9月4日、ローマ)、フィレンツェ 1962、6。 ↩

  198. 東方教会の聖年参加者への挨拶(2025年5月14日):AAS 117 (2025)、686。 ↩

  199. フランシスコ、回勅『フラッテリ・トゥッティ』(2020年10月3日)、271:AAS 112 (2020)、1066 参照。 ↩

  200. フランシスコ、平和のための祈りの世界日「平和への渇き:対話における信仰と文化」アッシジでの平和の訴え(2016年9月20日):AAS 108 (2016)、1124 参照。 ↩

  201. フランシスコ、「教皇庁駐在の外交団への挨拶」(2025年1月9日):AAS 117 (2025)、110。 ↩

  202. フランシスコ、「第38回FAO総会参加者への挨拶」(2013年6月20日):AAS 105 (2013)、616-617 参照。 ↩

  203. 最初の「ウルビ・エト・オルビ」の祝福(2025年5月8日):AAS 117 (2025)、660。 ↩

  204. 同上。 ↩

  205. 神の母聖マリアの祭日第一晩の祈りでの説教(2025年12月31日):L’Osservatore Romano, 2026年1月2日、1-2 参照。 ↩

  206. 日中のミサでの説教(2025年12月25日):L’Osservatore Romano, 2025年12月27日、3 参照。 ↩

  207. 同上。 ↩

  208. 主の公現の祭日でのアンジェラスの祈り(2026年1月6日):L’Osservatore Romano, 2026年1月7日、3 参照。 ↩

  209. 夜半のミサでの説教(2025年12月24日):L’Osservatore Romano, 2025年12月27日、2 参照。 ↩

  210. ピエール・ド・ベルル(P. de Bérulle)、『イエスの状態と偉大さについての説話、説話IV、受肉における神の唯一性(Discours de l’état et des grandeurs de Jésus, Discours IV, Unité de Dieu en l’incarnation)』: Œuvres complètes, パリ 1856, col. 218。 ↩

  211. 同上。 ↩

  212. 「人工知能とわたしたちの共通の家の保護」会議への挨拶(2025年12月5日):L’Osservatore Romano, 2025年12月5日、2 参照。 ↩

  213. ベネディクト16世、回勅『神は愛(デウス・カリタス・エスト)』(2005年12月25日)、14:AAS 98 (2006)、228。 ↩

  214. 聖アウグスティヌス、『説教集』、272: In die Pentecostes ad infantes de sacramento: PL 38, パリ 1865, col. 1247。 ↩

  215. ベネディクト16世、「主の晩餐の夕べのミサでの説教」(2011年4月21日):AAS 103 (2011)、321。 ↩

  216. ローマ教皇庁へのクリスマスの挨拶(2025年12月22日):L’Osservatore Romano, 2025年12月22日、6-7。 ↩

  217. 上記、第11-14項参照。 ↩

  218. 「人工知能の時代における子どもと思春期の若者の尊厳」会議への挨拶(2025年11月13日):L’Osservatore Romano, 2025年11月13日、3 参照。 ↩

  219. ベネディクト16世、回勅『カリタス・イン・ヴェリターテ』(2009年6月29日)、34:AAS 101 (2009)、668-670 参照。 ↩

  220. フランシスコ、使徒的勧告『ラウダーテ・デウム』(2023年10月4日)、67:AAS 115 (2023)、1059。 ↩

  221. 主の公現の祭日でのアンジェラスの祈り(2026年1月6日):L’Osservatore Romano, 2026年1月7日、3 参照。 ↩

  222. ベネディクト16世、一般謁見(2006年2月15日):L’Osservatore Romano, 2006年2月16日、4。 ↩

  223. 平和のための祈りの徹夜祭とロザリオの機会における黙想(2025年10月11日):L’Osservatore Romano, 2025年10月13日、2。 ↩

  224. 聖パウロ6世、「ボナリアの聖母マリアの巡礼地でのミサにおける説教」(1970年4月24日):AAS 62 (1970)、301。 ↩