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1. はじめに:ベネズエラ移民危機の概要
ベネズエラは、近年、ラテンアメリカにおいて前例のない規模の移民危機に見舞われています。2014年以降、約800万人のベネズエラ国民が国外へ避難しており 1 これは、中南米における最大の避難民危機であり、世界的に見ても深刻な人道危機の一つです 1。避難民と移民の多くは、経済的困窮、政治的不安定、人権侵害から逃れることを余儀なくされています 1。COVID-19パンデミックも、人々の移動と脆弱性を増大させる要因となっています 1。本報告書では、この危機の経緯、主な原因、周辺国への影響、これらの国々の政策対応、国際機関の役割、今後の見通し、そしてベネズエラ国内に残された人々の状況とコミュニティへの影響について詳細に分析します。
2. ベネズエラからの移民の経緯
ベネズエラからの移民は、20世紀後半から始まりましたが、その規模が大幅に拡大したのは21世紀に入ってからです。1983年の石油価格暴落後、緩やかながらも専門職を中心に国外へ移住する動きが見られました 3。1990年代後半にウゴ・チャベスが大統領に当選すると、その社会主義的な政策への懸念から、富裕層や中産階級の一部が最初の移民の波となり、主に米国とスペインへと移住しました 1。石油価格の変動はベネズエラの経済に大きな影響を与え、初期の移民の動機の一つになったと考えられます。
ウゴ・チャベス政権下のボリバル革命は、ベネズエラの社会構造と将来に対する見通しに変化をもたらしました。1999年のチャベス政権発足後、米国への亡命申請数は増加しました 3。2002年のクーデター未遂や2006年のチャベスの再選後にも、移民の波が起こりました 3。2009年までには100万人以上 3、2014年までには150万人が国外へ移住したと推定されています 3。この時期には、特に高度なスキルを持つ専門家の流出が増加しました 3。チャベス政権の政策と政治的展開は、特に専門職や中産階級の間に将来への不安感を生み出し、それが移民を促進したと考えられます。
2013年にニコラス・マドゥロが大統領に就任し、2014年に大規模な抗議活動が発生すると、ベネズエラからの移民率は急激に上昇しました 3。2015年以降、経済・政治危機が深刻化するにつれて、その規模はさらに拡大しました 1。当初は主に職を求めて男性が国を離れていましたが、危機の深刻化とともに家族全体の移動が増加しました 3。2018年以降、「徒歩で移動する人々 (caminantes)」の存在が注目されるようになり 2、COVID-19パンデミックは彼らの脆弱性をさらに増大させました 1。近年では、より多くの人々が米国を目指すようになっています 1。経済的困窮が深刻化するにつれて、より低い所得層の人々も移民に加わるようになり、パンデミックが人々の移動パターンや目的地に影響を与えたと考えられます。
3. 移民の経済的要因
ベネズエラの経済は、近年、壊滅的な状況にあります。2014年から2021年の間に、国内総生産(GDP)は80%も縮小しました 5。2015年の石油価格の暴落は、ベネズエラ経済を深刻な景気後退に陥れました 5。さらに、2018年にはインフレ率が100万%を超えるという、現代史上でも最悪レベルのハイパーインフレを経験しました 1。2024年のインフレ率は71.7%と予測されていますが 19、他の情報源ではより高い数値も報告されており 20、経済の壊滅的な状況が国民の生活水準を著しく低下させ、国外への脱出を余儀なくさせていることがわかります。石油依存からの脱却の遅れ、経済政策の失敗、そして蔓延する汚職が、この深刻な経済危機をさらに悪化させていると考えられます。
経済の悪化は、失業率と貧困率の上昇にもつながっています。2023年の失業率は5.5%と報告されていますが 19、2018年には35.6%という推定もあり 21、情報源によって数値にばらつきが見られます。しかし、貧困率については、2023年のENCOVIの定義による数値が51.9%であるのに対し 19、他の情報源では80%以上という高い水準が示されており 20、多くの国民が基本的な生活を送ることさえ困難な状況にあることがわかります。特に、極度の貧困層は増加しており、人口の53%に達しています 7。経済の縮小とハイパーインフレは、雇用機会を奪い、多くの人々を貧困に突き落としていると考えられます。
このような経済状況の下、ベネズエラでは食料や医薬品といった生活必需品が深刻に不足しています 1。最低賃金も非常に低い水準にとどまっており 7、国民は日々の生活を送るのに苦労しています。このような生活必需品の不足は、国民の健康と安全を脅かし、生存のための国外移住の強い動機となっています。政府の社会サービス提供能力の低下と、輸入制限などが物資不足を悪化させていると考えられます。経済危機が深刻化するにつれて、移民の数が増加している明確な関連性が見られ 1、2015年の石油価格下落がその転換点となった可能性があります 5。経済的苦境が直接的に人々の国外移住の決断を促しており、経済状況の改善が見られない限り、この流れは継続する可能性が高いと考えられます。
4. 移民を助長する政治的および社会的要因
ベネズエラからの大規模な移民は、経済的な要因だけでなく、深刻な政治的および社会的な要因によっても引き起こされています。ニコラス・マドゥロ政権は権威主義的な支配を強めており 1。2018年の大統領選挙は不正であったと広く非難されており 6、2024年の選挙後も依然として政情不安が続いています 9。このような政治的な安定の欠如と民主主義の機能不全は、国民の将来に対する不確実性を増大させ、国外への脱出を促す要因となっています。権威主義的な支配が続く限り、政治的な理由による移民も継続する可能性が高いと考えられます。
また、ベネズエラでは深刻な人権侵害と民主的自由の欠如が報告されています。恣意的な逮捕、拘禁、拷問 1、そして反対派や人権活動家への弾圧 1、そして報道の自由の制限と検閲 1 も、国民が安全で尊厳のある生活を送ることを困難にし、国外での避難を促す重要な要因となっています。基本的な自由と権利の侵害が続く限り、人権侵害を理由とする移民は継続すると考えられます。
さらに、ベネズエラでは犯罪、治安悪化、暴力が蔓延しており 1。政府による超法規的殺害の疑いも報告されており 1。犯罪と暴力の蔓延は、国民の安全を脅かし、国外での安全な生活を求める強い動機となっています。法の秩序と治安が回復されない限り、安全を求めての移民は続くと考えられます。政治的な出来事、例えば選挙結果をめぐる抗議活動とその鎮圧 1 や野党指導者の逮捕や失格 9 も、人々の安全と自由に対する脅威を増大させ、新たな移民の波を引き起こす可能性があります。選挙の不正疑惑や反対勢力への弾圧が続く限り、政治的な不満を理由とする移民は継続すると考えられます。
5. 主な移民先国への影響
ベネズエラからの大規模な移民は、周辺の国々に大きな影響を与えています。以下に、主な移民先国とその影響について概説します。
- コロンビア: コロンビアは、290万人以上ものベネズエラ移民・難民を受け入れており 1、これは地域で最も多い数です。コロンビア政府は、一時保護ステータス(ETPV)を提供し、190万人以上がこれを利用しています 18。国際移住機関(IOM)の調査によると、2022年にはベネズエラ移民がコロンビア経済に5億2910万ドルの経済効果をもたらしたとされています 46。しかし、労働市場への影響として、短期的には賃金低下の可能性も指摘されています 41。社会統合の課題も存在し、外国人嫌悪の兆候も見られます 9。コロンビアはベネズエラ移民の主要な受け入れ国であり、寛大な政策を実施しているものの、社会経済的な課題も存在することが示唆されます。大規模な移民の流入は、受け入れ国の社会インフラや労働市場に短期的には負担をかける可能性がありますが、長期的には経済成長に貢献する可能性も示唆されています。
- ペルー: ペルーは、150万人以上のベネズエラ移民・難民を受け入れています 1。ペルー政府は、一時滞在許可証(PTP)などの正規化プログラムを実施し 64、IOMの調査によると、2024年には5億3000万ドルの経済効果が見込まれています 49。しかし、労働市場では非正規雇用が多く、資格に見合った仕事を見つけるのが困難な状況です 48。また、外国人嫌悪の増加と入国規制の強化も見られます 43。ペルーは多くのベネズエラ移民を受け入れているものの、近年は入国規制を強化する傾向にあり、経済的な貢献がある一方で、労働市場での課題や社会的な摩擦も存在することが示唆されます。当初は寛容な政策をとっていたものの、移民の増加に伴い、国内の社会経済状況への影響を考慮して政策を転換したと考えられます。
- エクアドル: エクアドルは、47万人以上のベネズエラ移民を受け入れています 1。エクアドル政府は、2022年に難民の正規化を容易にする措置を導入しました 68。しかし、労働市場への影響として、女性や低学歴の若者の雇用に悪影響があったとする分析もあります 53。社会統合の課題や外国人嫌悪も報告されています 54。エクアドルは比較的寛容な政策をとってきたものの、社会経済的な負担も認識されており、労働市場における影響には注意が必要であることが示唆されます。財政的な制約や社会サービスの負担増が、エクアドルの移民政策に影響を与えている可能性があります。
- ブラジル: ブラジルは、56万人以上のベネズエラ移民・難民を受け入れています 1。ブラジル政府は、難民認定手続きの簡略化や一時居住許可の付与といった政策を実施しており 73、労働市場への統合支援プログラムも展開しています 57。しかし、社会統合の課題や差別も存在すると報告されています 57。ブラジルは比較的オープンな移民政策を維持しており、難民の社会経済的統合を積極的に支援していることが示唆されます。広大な国土と多様な経済を持つブラジルは、ベネズエラ移民を受け入れ、国内の労働力不足を補完する潜在力があると考えられます。
- チリ: チリは、43万人以上のベネズエラ移民を受け入れています 1。
- アルゼンチン: アルゼンチンは、約7万8千人のベネズエラ移民を受け入れています 1。
国 | 推定移民数(最新) | 主要な受け入れ政策 |
コロンビア | 290万人以上 | 一時保護ステータス (ETPV)、PEP-Tutor |
ペルー | 150万人以上 | 一時滞在許可証 (PTP)、人道ビザ |
エクアドル | 47万人以上 | 一時居住例外ビザ、正規化プロセス |
ブラジル | 56万人以上 | 難民認定手続きの簡略化、一時居住許可 |
チリ | 43万人以上 | ビザ要件の導入、国境警備の強化 |
アルゼンチン | 約7万8千人 | 法的滞在許可 |
この表は、危機の規模と、各主要国がどのような異なるアプローチで対応しているかを明確に示しています。政策の違いは、移民の統合と受け入れ国への影響に大きな影響を与える可能性があります。
6. 受け入れ国における政府の政策と支援策
ベネズエラからの移民の流入に対応するため、周辺各国は様々な政策と支援策を実施しています。これらの政策は、移民に付与される法的地位の種類、支援の内容、そして実施における課題など、多岐にわたります。
多くの国では、ベネズエラ国民に対して一時的な法的地位を付与しています。例えば、米国は一時保護ステータス(TPS)をベネズエラ国民に提供しており 1、これにより、対象となるベネズエラ国民は米国での就労と強制送還からの保護を受けることができます。コロンビアは、10年間の保護ステータスと労働許可を与える一時保護ステータス(ETPV) 18 や、ベネズエラ人の子供の保護者向けの特別滞在許可(PEP-Tutor) 63 を導入しています。ペルーでは、一時滞在許可証(PTP)や一時滞在許可証カード(CPP)を発行し 64、エクアドルは2年間の滞在許可を与える一時居住例外ビザを提供しています 69。ブラジルは、難民認定手続きを簡略化し、一時居住許可を付与することで対応しています 73。
これらの政策は、多くのベネズエラ移民に法的地位と基本的なサービスへのアクセスを提供する上で一定の有効性を示していますが、課題も存在します。正規化された移民の労働市場への統合は依然として難しく 18、外国人嫌悪や差別も報告されています 9。政策の実施には財政的な制約があり、国際的な支援が不可欠です 9。また、一部の国ではビザ要件の導入や入国管理の強化といった動きも見られます 14。
7. 国際機関の役割
ベネズエラ移民危機への対応において、国際機関は重要な役割を果たしています。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、難民・移民の保護と人道支援 10 を行い、国際移住機関(IOM)と共同で地域プラットフォーム(R4V)を主導し、対応を調整しています 1。UNHCRは、保護ニーズの特定、法的支援、基本的ニーズへの対応など、多岐にわたる活動を行っています 10。IOMは、安全で尊厳のある移住の促進 79、人道輸送、シェルター、基本的な生活支援の提供 79、そして社会経済的統合と包摂の支援 79 を行っています。
しかし、危機への資金提供は深刻な課題であり、R4Vの資金不足は顕著です 9。この危機に対応するためには、国際社会、民間セクター、そして国際的な金融機関からの更なる投資が必要です 9。国際機関は、ベネズエラ移民・難民への人道支援と保護において不可欠な役割を果たしていますが、資金不足がその活動を大きく制約しています。国際社会全体での責任分担と、より持続可能な資金援助の仕組みが求められています。
8. 今後の見通しと長期的な影響
ベネズエラ移民危機は、今後も長期にわたって続く可能性が高いと考えられます。政治情勢が悪化すれば、新たな移民の波が発生する可能性があり 7、受け入れ国の経済状況や政策変更も移民の流れに影響を与えるでしょう 9。ダリエン地峡を通過する危険な移動は、今後も継続する可能性が高いと見られています 1。
この移民危機は、ベネズエラと受け入れ国の両方に長期的な社会的、経済的、政治的影響を与えると考えられます。受け入れ国においては、労働力の増加や消費の拡大により、GDP成長への潜在的なプラスの影響が期待される一方で 40、公共サービスへの長期的な負担の可能性も指摘されています 1。ベネズエラにおいては、労働年齢人口の減少と出生数の減少、そして高齢化の加速といった人口構成の変化が予想されます 5。危機が長期化するにつれて、短期的な対応からより持続可能な長期的な統合戦略への移行が必要となるでしょう。
現時点では、ベネズエラからの帰還移民はごくわずかであり 5、政治的・経済的な状況が改善しない限り、大規模な帰還は期待薄です 5。この状況は、受け入れ国が一時的な保護措置だけでなく、長期的な定住と統合に向けた政策を検討する必要性を示唆しています。
9. ベネズエラ国内の状況と移民を送出したコミュニティへの影響
ベネズエラ国内に残された人々は、依然として厳しい生活状況に置かれています。多くの人々が貧困と食料不安に苦しんでおり 7、医療、水、電気などの基本的なサービスは崩壊したままです 1。政治的反対派への弾圧と人権侵害も続いています 9。
移民の大量流出は、ベネズエラの労働市場と人口構成に深刻な影響を与えています。労働年齢人口の減少 5、出生数の減少と高齢化の加速 5 が進行しており、将来的に労働市場の機能不全を引き起こす可能性も指摘されています 5。
移民を送出したコミュニティでは、家族の分離とケアの負担の増加 5、そして国外からの送金への依存といった課題が生じています 1 が増しています。
10. 結論
ベネズエラからの移民危機は、経済的、政治的、社会的な要因が複雑に絡み合って発生した、ラテンアメリカにおける深刻な人道危機です。2014年以降、約800万人が国外へ避難し、周辺国は大量の移民・難民の受け入れと統合という課題に直面しています。各国政府は様々な政策を導入し、国際機関も支援活動を行っていますが、依然として多くの課題が残されています。今後の見通しとしては、ベネズエラの政治経済状況が改善しない限り、移民の流れは継続する可能性が高く、長期的な視点での対応が求められます。国内に残された人々も、依然として厳しい生活状況にあり、移民を送出したコミュニティへの影響も深刻です。この危機を解決するためには、ベネズエラ国内の根本的な問題の解決と、国際社会全体の協力が不可欠です。